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運命を変える「本」との出会い。「読書」という体験。

先月のことだが、村上春樹さんの新刊の短編集を読んだ。相変わらずの、春樹ワールド。素晴らしかったです。

村上春樹といえば長編が有名だが、俺はかなり短編も好きで、彼の作品は「不思議」というか、下手したらそれは『スピリチュアル的』な要素も強い作品も多い。そして短編には小説というより、エッセイ的な文章もあり、まるで、彼本人の体験談のように書かれている。
(いつか、直接のその辺を聞いてみたいものだ。「あれは実体験なんですか?」って。でも、いち読者としては、知らない方がいいのかな…)

俺の著書「人生をひらく不思議な100物語」は、

すべて俺が体験した実話だけど、「不思議感」を紡ぐ上で、実は村上春樹ワールドの影響を大きく受けている。

もちろんあらゆる文章に影響を受けたし、あらゆる体験に経験は受けるが、やはり俺の中で村上春樹の影響は大きい。きっと、多くのフィクション作家がそう言うだろうけどね。

タイトルにある「読書という体験」。テキスト形式のハウ・ツー本は、純粋な情報として、知識収集としての実用書だが、小説などのストーリー作品は、まさしく「体験」だ。読者は、物語を通して、自分を取り囲む現実とは違う世界を、主人公なり、語り手の目線で体験する。

映画や漫画などもそうだが、活字だからこそ、という面白さがある。そしてそれは“想像力”と直結する。

例えばこんな短いワンシーン。

・・・・・・

カオリは振り返らなかった。少し下り坂になったコンクリートの道を、ヒールの音を響かせて歩く。周りに高い建物が多いせいか、その音がやけにくっきりと、輪郭をもったまま、ほんの少し余韻を残し、静かに狭い空に吸い込まれて行った。

「待てよ!」

タクヤは怒鳴るように声をかけた。足早に、自分の前から去る恋人の背中に向かって。しかし、その声も彼女のヒールが立てるコツコツとした音と共に、ビルの間に吸い込まれた。

「ほんとに…、いいのかよ?」

今度は、呟くように声をかけたが、たぶん、彼女の耳に届いていないことは、彼自身もわかっていた。

これ以上、なんて声をかければいいのか、タクヤはわからず、思わず舌打ちをして、その場で深く項垂れた。ここで引き止めなければ、恋人は“元恋人”になってしまうかもしれない。しかし、タクヤにもタクヤなりに、引けない理由があるのだ。

・・・・・・・・・・・

どうだろう?あなたはカオリやタクヤの容姿や、声を想像しただろうか?風景を想像しただろうか?

あえて、風景や、服装、二人の立ち振る舞いの描写は少なめにしてあるが、ここで「カオリはいつものように凛とした姿勢で…」とか「タクヤはネクタイをほどいた。年に一度か二度、ネクタイを閉めるが、いつもロクなことがないと思う」という一文を入れると、またぐっと彼らの人間味というか、雰囲気が加味される。

しかし、これを加味すればするほど、イメージは限定的となる。かと言って、何も描写しないと、何が何だかわかるはずもない(笑)。その辺の駆け引きと、文章のリズム感が、面白みであり、難しいところだ。

これは小説作品に限らず、実用書でも同じだろう。文章はただ「説明」をすればいいってものではない。描写とリズム感だ。

ただ、映画や漫画の方が、イメージが限定される分、想像力を使わないので楽でもある。古来より、偉人や成功者は皆「読書家」なのは、やはり本による「想像力」の強さではなかろうか?想像力(イメージ)は、そのまま「創造力(クリエイション)」に繋がる。

だから、俺はみんながもっと本(小説作品)を読めばいいと思う。スピリチュアルや自己啓発にハマると、その手の“実用書”しか読まない人が多いし、最近だと、「動画」全盛時代。しかし、中には丁寧に字幕付きで説明されないと理解できない人も多いから、想像力を鍛える時間はなさそうだ。

本の話に戻る。

俺の人生で、運命的な「本との出会い」はいくつかある。それは、運命的な「人との出会い」と同じくらい、少なくとも俺にとっては重要なものだ。

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