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“女の人”が怖かった僕が、女のために生きると誓った日。(後編)

の、つづきです。

恐れを飛び越えるには…


僕にとってはいつも「女」という生き物は、異星人、いや、それ以上の「異質」「異物」であり、同じ生物の括りに考えられなかった。なのに地球上の人間の半数を占めていて、会話もできるし、触れ合うこともできて、世の全ての人は母親という女性から生まれるというこの不思議!

いつも距離を置いていた。警戒心の強い猫のように、とにかく女の人には一定の距離感を設けて、決して心を開いてはならぬ!信じてはならぬ!と、謎の戒めを持っていた。

しかし、そんな僕には大いなる矛盾。大いなるパラドックスがあり、いつも葛藤していた。

女が怖い。なのに、女が好きなのだ。

ちなみに「怖い」のであって、「嫌い」とは今まで一言も書いていない。

得体の知れぬ怖さをこちらが一方的に感じているだけで、常に自分の心も体も(特に体が!)女を求めているのだ。

それはもう僕の育った環境とか母との関係とか、そういうものよりももっと根深い事情があるのだろう。

しかし、女が好き。つまり、女性を求める自分がいる。

女性が怖い僕が、その恐怖の対照である女性に対して求めるものはなんなのか?

それが自分でも全くわからないのだ。そんな恐ろしい存在に、一体何を求めるというのか?

思春期というバブル


1990年代。時はバブル絶頂の時代。僕は思春期と呼ばれる、不毛であり、目に移るものすべてが刺激度150%増しの、パチンコでいうなら確変状態に入った。

思春期という時代に起きる「THE・性への目覚め」は、我々を危険な集団催眠のようにどこかに誘導していく。それはとても大きな流れだった。

それはもはや人生のバブル景気のようなものだ。架空の「泡」だ。自分の中で、実態のない何かが膨張していく。

性への目覚めとは、つまり「 女子のあんなところはどうなっていて、そこにあんなことして、自分のあんなものをこんな風にしちゃいたいし、それしちゃったらどうなってしまうんだろう?」という興味が、日常の思考の大半を占めるようになる。

しかし、ここで青少年は大きな矛盾を抱えるのだが、純粋に「」もしてしまうのでやっかいところだ。

ここはおそらく女性との大きな違いになるのだろうけど、男は恋に落ちると、その恋の対象は「性の対象」にしたくないという、意味不明の純情ロマンを抱いたりするのだ。

なぜなら「恋」と「性」は繋がりはありこそすれ、「性」は恋愛とは別途のものであり、常に「性」は独立歩行したもので、しかもその歩行は当人にもコントロールできないと来たもんだ。

そしてこれも時代の偏見かもしれないが、“恋”は「聖」で「表」で「善」でも、「性(エロ・スケベ・性欲)」は「邪しまな気持ち」で「裏の自分」で「醜い欲望」だと認識していたので、余計に純粋な恋心に性欲を持ち込むのはタブーだった。

少なくとも、僕はそうだった。

実は拙者が性的な関心、興味に目覚めたのはすこぶる早い時期からあり、それこそ幼稚園くらいの頃から、興味津々丸でござった。

それが、中学生の頃にマジで劇的に頭がおかしくなるくらい人を好きになったりして、でも相変わらず女の人は怖いしで、とにかく自分の中がひっちゃかめっちゃかだ。

僕は小学生の頃から歴史が大好きで、古代中国の古典が好きだったので、「君子危うきに近寄らず」という言葉の意味を知り、女性に対してそう思っていた。しかしさすがに思春期になると「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という諺の方がウェートを増していく。

(オレは、女子と仲良くなりたい。そして、女子の〇〇を▲▲を××して、□□したい!)

という欲求が、恐れを上回った。

そう、欲望が恐れを飛び越えるのだ。僕の人生は、そこから一気に華やかさを増す。


女がいる人生


今でも思い出せるが、中学2年になったばかりの頃だった。クラスの可愛い女子の家に、初めて電話をかけたあの日、あの時、あの瞬間。

こっちは同じく思春期男子数名で集まっていたが、全員腰抜けだったので、僕が受話器を持った。

(おとーさんとか留守にしてますように!)

と願いをかけて。

「もしもし」

(きたー!本人だ!)

「あ、オレ、同じクラスの…」

緊張しつつ、冷静かつ、失礼なきように会話をし、ちょうど友達も(隣のクラスのかわいい子!)来ているというので、思い切って家に呼んでみたら、なんと来てくれたのだ。

初めてのことだったので、向こうの女子も、こちらの仲間たちも緊張でぎこちなかったが、僕はそんな時は「気遣いの鬼」と化し、話題を振り、場を盛り上げ、楽しいコミュニケーションの時間となった。

それをきっかけに、どんどん枠を広げ、僕は自分の軽快なキャラを演じながら、「女の子」という未知の生物との距離を徐々に徐々に詰めていった。

恐れつつ、内心ビビりつつ、探っていく。そんな素振りをミジンコも見せないように、柔軟にコミュニケーションしていく。

そうやって僕はどんどん女子と仲良くなっていった。いざ話してみると、それだけでどんどん楽しくなった。話せば話すほど、未知の生物「女」に対して、耐性がついていった。

そしてこの頃になるともう、

「え?女のいない人生なんてクソでしょ?生きてる価値なくない?」

と、非モテのジミーな男たちにドヤ顔で言っちゃうくらいな思考に変わってた。今までのギャップがあったせいかな。

でも、実は家庭環境もあった。当時は我が家は家計は火の車であり、一家崩壊間近の悲惨な状況だった。

しかし、だからこそ僕はそのストレスと、「音楽」と「女子」に向けて発散するしかなかったのだ。

もちろん、この辺から「性的」なものが複雑に交錯して、思春期バブルは常時下半身にテントを張り巡らしている発情期なので、面白い逸話は事欠かないが、如何せんさぞかしこのnoteの読者も女性が多いだろうということで、その辺の思春期爆裂スケベ男子伝説は割愛する。

さて、順当に、とはいかないが、僕は女性に慣れていった。女の子とコミュニケーションを取ることは、むしろ僕の「特技」でもあったと言ってもいいだろう。

週に1、2回は合コンをし、街でナンパ、海でナンパ、とにかく声をかけまくり、実践で鍛えていった。

しかし、やはり「深い関係」となると話はまったく別で、誰とも深い仲になったことがない。

ほとんどが行き当たりばったりや、その場限りのもので、上手くいったり、上手くいかなかったりしながらも、特定の人と関係性を持つことはまずなかった。そもそも、「本命」を目の前にすると、緊張していまいちトークに切れ味がなくなるし、僕が好きになるのは決まって「街でも有名な美人」とか「学校一の美女」とかなので、友達になったはいいけど、

(こんな素敵な彼女に比べて、こんなダメダメなオレなんかじゃ釣り合うはずがない…)

と、抑圧して、誤魔化し自己肯定感の低さが溢れ出し、自己価値を無くし、何もしていないのに凹んでしまったりしていた。

もちろん、女子の「お付き合い」というのはある。しかし実は僕を知る人には意外に思われるかもしれないが、僕は人生でまともに「交際」した女性は片手で数える程度で、今の妻を除けば、どれも3ヶ月もしないうちに終わった。

女の人は無条件好きだし、女性たちとたくさん楽しいこともあったし、仲の良い女友達もいた。しかし、それでもやはり「女は魔性」という思いは捨てきれなかったし、大人になればなるほど、女性と楽にコミュニケーションが取れるようになるほど、同時にますます「女はわからん!」という思いが確信になった。

もちろん、今でもわからん。女心なんてちぃーともわかりません。でも不思議と、女心をわからないと、はっきりと認識して、女心を理解しようとしたり、女の人に合わせようとすることをやめてからの方が圧倒的にモテた。

にしても、女性と親しくなり、コミュニケーションも自然に取れて、時にはモテ術も発動できるというのに、何がそんなに怖かったのか?

女の呪術


僕は自分が怒るのも苦手だけど、人が怒ってるのを見るのも苦手だし、ましてそれが自分に向けられるとなると本当に嫌だ。

しかし、誰に怒りを向けられるにしろ、圧倒的に女の人の怒りの方が“怖い”と思う。

ちなみに、まともに考えると男の方が物理的に危険度が高いはずだ。

おっかないヤンキーの先輩を怒らせてボコボコにされた事あったし、食事中に父親を怒らせてしまい、裏拳が飛んできて橋が口の中にささって、さらに鼻血も出て酷い目に遭ったとか、体験としても男を怒らせた方がダメージに繋がっていた。

しかし、女の人の怒りは、目に見えない“呪術”とか“呪い”とか“呪怨”とか、そんな『黒魔術的』なものが含まれてるような気がしたのだ。

なんで?と言われても、これももう物心ついた時からそう感じていたので仕方ない。男のシンプルな怒りとは、性質が違うのだ。

それらの目に見えない呪怨は、こちらとしてはも「物理防御」ができないなので、防ぎようがない。だから発生させないことに意識を注いだ。

ちなみに、25、6歳になってから、エネルギーやヒーリングやらを学んでから理解したが、「生き霊」と呼ばれる思念体があるのはわかる(実際に女性の方が多いし、強い…)。そして、それらを防ぐことはかなり難しいケースも多い。まあ、その辺の話は今回のテーマではないので割愛する。

とにかく、子供の頃からそういうものをキャッチしていたような気がする。女の人は、目には見えない何かで、憎い相手を攻撃できる。しかもその攻撃はパンチだヘッドロックだカツアゲだのというシンプルなものではなく、長期的、慢性的に苦しめる類のパワーなのだ。

だがしかし!怒らせたくないと思っていても、ここでも女性は難しい。

怒りのポイントがわからないのだ。

母親もそうだったけど、「え?な、なんで?」という場面でいきなり怒ってしまう。

中には地雷エリアを周囲に張り巡らせているような女の人もいて、こちらはどこに起爆スイッチがあるかわからず、慎重に慎重に行くのだが踏んでしまうこともしばしばある。さらに、

「ちょっと!私がなんで怒ってるかわかる!?」

なんて問い詰められて、その理由がわからないので余計にキレられるという、核分裂の連鎖反応のような悪循環。そうなると彼女の中の“怒りの燃料”を燃やし尽くすまで止まらない。

ちなみに、仮に怒りポイントが分かったとしても、その日の気分や体調で、着火への沸点が驚くほど低いので、やはり、

(え?なんで?この前は大丈夫って言ってたじゃん!)とまごついてしまう。

昨日まで「大好き」と言ってたのが、何かの拍子で「大っ嫌い!」になってしまうのだ。しかも、その「大っ嫌い」は“本気”なのだ。もちろん「大好き」も本気だった。しかし、何かの拍子に本気で入れ替わってしまうことに何度も何度も何度も驚かされた。この感覚は、男性にはなかなかあり得ない感覚だった。

そして、そんな感情的になった時の女性に勝ってはいけないということも、大人になって学んだ。勝ってはいけないというのは、つまり「戦わない」が一番だけど、「向き合わない」は危険だ。だから向き合って“負ける”もしくはせいぜい“引き分け”を狙うのが関の山だ。

だが「勝って」はいけない。こちらも大人になると、女性というものを学ぶし、こちらもさまざまな理論武装があるし、優位に展開を運ぶ駆け引きもできるようになる。

しかし、感情的になり、怒りを向ける女性にこちらが「勝って」しまうとどうなるか?

今度は呪術が発動されるのだ。だから、試合に勝っても勝負に負けることになる。黒魔術対決では敵わない。

だから感情が鎮まるまで、どんな理不尽なご婦人の罵詈雑言も受け流すしかないのだ。

そう考えると男は楽というか、アホというか、かわいいもんかもしれない。

あ、もちろん男でも“生き霊”発生させるやつはいるよ。女性だとそれも込みで「まあ、しゃーないよね」とこの頃は笑って許せるけど、男だと「うわぁ、関わりたくないわ〜」と、思ってしまう。

笑って許せると書いたけど、そこなんだよ。

男の器


僕は誰よりも「男」でありたいと思ってる。今どき古風だけど、男に生まれたからには、男としての人生を誠実に生き抜きたい。

だから昨今の「ジェンダーフリー」とか「LGBTQ」とか、僕は違和感ある。

まあ、それはさておき、とにかく「男」でいたいと思う。(“田んぼ”に“力”なんてしょぼい男ではなく、「漢(おとこ)」と書きたいくらいだ)

真の漢とはなんぞや?

やはり「器」であり、度量なんだろう。

男の度量とは、そんな女性のすべてを認め、受け入れ、愛することなんだろうと思う。僕も出会ったさまざまな女性たちから、数々の理不尽な感情の嵐を受け、生き霊も受け(笑)、それでも結果として「大丈夫」だったということ、この歳になってようやくわかった。

「女性性」とか、その辺の深い話


自分が精神世界を探求していく中で、深いドラマがあり、僕の持つ女性への先天的な恐れは、一つのテーマなんだということも知った。

女性は怖い存在ではなく、僕が自分の自己成長のために、「怖い存在」として仕立て上げてたのだ。

無条件で好きで、無条件で怖かった女性。それらの偏屈な業(カルマ)を超えて、そう無条件で全部受け入れ、愛するために。

そのためにはもう、精神世界だのなんだの理屈をこねる前に、男の「器」として、ちっせぇことは言いっこなしなんだ。

もちろん今まで述べた、独断と偏見による「女性の特徴」ことは一つの事実かもしれないけど、それは陰陽の一つの側面であり、そられが「陰」であるなら、「陽」の部分にもたくさん出会ったからだと思う。

感情が豊かなので、表現力があり、協調性があり、共感力も高いし、好きな相手には心から応援したり、親身になるし。生き霊になるくらいの強い思念は、そのまま強い「祈り」になる。

結局は「人間力」が大きく関わっていて、未熟な人は、男でも女でもやはり迷惑をかけることの方が多いし、困ったちゃんになりがちです。

僕自身が成長したからなのか、大人の成熟した女性にたくさん出会うようになり、女性の今まで見てきた怖い部分ではなく、素晴らしい部分がむしろたくさん観れるようにあり、それは尊敬すべき、尊重すべきものだと思う。

そして今も、僕はいつも素敵な女性たちに支えられている。

女性性の強さ、大きさ、果てしなさ。人間の思考や知恵を超えた大いなる叡智に触れるたび、僕はいつも感激し、感動する。そしてその無償の愛に打ちのめされる。

この世界は女性の愛でできていると言っても過言ではない。女性の愛という「場」の中で、男性は動き、生成活動をする。

女性が豊かで幸せであることが、豊かで幸福な「場」を作る。そこで何をするかはその後の自由。しかし、まずは女性(性)。

だから僕は「女性のために生きる」と決めたのだ。自分のため、家族のため、世界のため、宇宙のため。

自分の行動は女性の幸福につながるものにしよう。そして女性を通して還元され、循環される世界。

だから、まずは今目の前の女性。妻はもちろん、目の前で関わってくれる女性。最大限のリスペクトと感謝を込めて、あなたが幸せになれるように全力を尽くします。

とまあ、Youtubeのデータから、そんな壮大かつ、他人にはどうでも良いことを長々長々と書き綴った。最後まで読んでいただきありがとう。

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