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小説「祈り」 #3 完結

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「祈り」  第3話 完結
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7 心静かに


(このままではダメ!行ってはダメよ!)

明美は強く思った。しかし、思うだけで彼女にはまるで通じていないようだった。この人物は明美ではない。いつもの白昼夢なら、自分自身を動かせるのに、今はただ「観て」いるだけだ。

彼女は颯爽と歩き続ける。胸の中は今日の事を考えて不安が少し、しかしそれよりもワクワクしているのがわかる。頭の中はまた素早く何かを計算している。

(止まって!お願い!よくない事が起きる!)

必死に思う。思うことしかできない。明美には止めるための手足もなく、声もない。

そこでまた、小さな子供を連れた母親が自転車を漕ぐ姿が目に入る。

(…ああ、私も昔は娘が小さかった頃はあんな風に…)

明美は回想にふけそうになるが、

(違う!さっきも思ったことだ!)

すぐに自分の思考を振り払う。

集中力が続かないことを理解した。なぜなら危機感と恐怖は感じつつも、全体的には先ほど感じた心地よさがあったからだ。油断すると、この夢が終わってしまいそうな予感すらある。明晰夢を切り上げる時の感覚に近い。夢の世界で終わると、あちらの現実の世界で立川明美として目に覚ますのだ。となると、一体どちらが本当の自分で、本物の世界なのだろうと、時々混乱することもある。

しかし今はそんなことは考えていられない。

また母娘が目に入る。今度もまた自分の過去を連想しそうになったが、今度は自分の「母親」のことを思い出した。まるで連想ゲームだ。

母とよく教会へ行った。

「お祈りはね、静かな気持ちで祈るのよ」

飼っていたランという名のメス犬がいた。明美が生まれた時から家にいた犬だった。

ランは明美が6歳の時に病気になり、とても苦しんだ。当時は獣医やペット病院もないので、自宅で看病をした。見ているだけで辛かった。

母はランのために祈った。横で明美も必死に祈った。ランが助かりますように、ランが助かりますように…。声に出して、祈った。

すると母は幼い明美に言ったのだ。静かな気持ちで祈るのだと。

「だからお母さんは黙っているの?」

母は祈る時、とても美しかった。静かに、穏やかに目を閉じ、手を合わせてじっとしているのだ。当時でも周囲の母親たちよりも明らかに美人で、明美にとって普段から自慢の母だったが、祈りを捧げている時の母は、誰よりもきれいだと思った。

「治るように祈ってるの?」

明美が尋ねると、

「違うの。治るかどうかは、神様が決めることよ。ただ、私は今ランが苦しむ姿を見て苦しいという事実と、ランのことを愛しているという事実があって、ランと神様の間で、愛が生まれることを祈ってたのよ」

「愛が、生まれる?」

「そう。奇跡が生まれるの。奇跡は私一人でもダメ。あなたの一人でもダメ。私たちと、神様。みんなの気持ちが一つになることなの。お願いをするのではなく、ましてお願いの結果を気にすることではないのよ」

その後、家に帰るとランはすやすやと眠っていた。ずっと苦しんでいたのが嘘みたいで、そしてそのまま、深夜になって眠りながら息を引き取った。

明美にはその時は母が何を言っているのかわからなかったが、歳を重ねて、ヨガと瞑想を日課にするようになってから、その意味をなんとなく掴んできた。

掴んだきっかけはヨガ仲間たちだった。

彼女たちは神社に参拝するのが好きで、やれどこの神社は金運が上がるとか、どこの神社は縁結びが起きるとか、きゃっきゃと騒いでいて、明美も誘われて明治神宮や東京大神宮に行って、帰りに仲間とランチをしたりした。

一緒に行ってわかったのだが、何やら世の中には神社参拝の指南書のような、神道や宗教観とはまるで関係のない書籍がたくさん出版されているようで、彼女たちはそういう本を頼りにあちこちの神社にお願いをしに行っていた。

お願いが、彼女たちの「祈り」だった。内容は病気治癒、ダイエット、宝くじ、夫とのトラブル、子供の就職、娘の結婚…。

しかし、明美は母の祈りと、彼女たちの神社への祈りがあまりに違うので、神社参拝の誘いにはそれとなく断るようになった。そしてそれらの違和感と共に、「祈りとはなんだろう」と、日々考えるようになった。

(祈りは、結果をコントロールすることが答えではなく、祈りそのものが答えなのだ)

しかしある時、瞑想をしながら、ふとそんなアイディアのようなものが湧いてきた。インスピレーションと言った方がいいかもしれない。

そう、祈りは、祈りそのものが結果だ。なぜなら、瞑想と同じで、今この瞬間に命を預けているから。母はいつも、祈りの瞬間に、すべてを捧げていた。ランの病気を治すために祈ったのではない。今ある事実を全て受け入れて、母は愛していたのだ。

今となって、それがわかる。

………車のクラクションが聞こえ、明美の意識はその夢想から戻った。その音は数メートル先の交差点から聞こえてきた。

渋滞の交差点に、大きなトラックがゆっくりと侵入してくるのが見えた。明美はそのトラックの色と形に見覚えがあったので、

(行ってはダメ!)と、また強く思った。しかし、彼女はおもむろに横断歩道に向かって走り出そうとした。歩行者信号はとっくに赤になっていて、道路の大きな信号も黄色から赤になろうとしているのに。

特に理由はないのだろう。特に急ぎたいわけではないのだろう。咄嗟に彼女は「間に合う」と思ったら、駆け出すタイプの性格なのだ。

明美はそう理解し、心を静かに、祈ることにした。

なぜだかその時、先ほどの母の姿と言葉を思い出した。彼女が駆け出すその刹那のはずなのに、そこにはまったく違う種類の時間が流れていた。

祈る。本当は目を閉じて、手を合わせたかったが、今は閉じる目もなく、合わせる手もない、意識だけの存在。しかし、それでも心静かに祈る。

何を祈ったのだろう?すぐに心地よい瞑想をしている時のような気持ちになった。ただ、「行ってはダメ」とか「事故が起きないように」とか「車よ止まれ」とか、そういうことは考えいない。

今この瞬間に、感謝したのだ。今こうして、彼女が歩き、街を行き交う人々がいて、車で移動する人々がいることに、祝福をしたのだ。何が起きるとか、起きないではなくて、この瞬間にだけ明美は静かな気持ちで、しかし大きな愛で見守ったのだ。

8 午前8時28分

違和感のことは忘れて、今日のプランを達成すべく、真希は気を取り直し歩行のペースをあげた。

ちょうど自分が交差点の横断歩道に差し掛かるタイミングで、信号が変わりそうだった。車道の信号は黄色。

真希は走った。特に急いでるわけではないが、ペースをあげたタイミングだったからかもしれないし、元々彼女はこういう時は、さっさと渡りきるタイプだ。

「走れば間に合うのに走らないなんて、獲物を取り逃して損をするようなもの」と、これは営業について部下に語った言葉だが、彼女はその通り、こうした私生活でも完全にそういう性格なのだ。走れば渡れる。だったら走ればいい。彼女の中で止まるというのは完全に「間に合わない」と判断が下されてからなのだ。

しかし、横断歩道を一歩前に出たあたりで、真希はガクンの視界が傾き、突然世界がぐるりと回った。履いていたヒールが道路と歩道の淵のわずかな段差にひっかかり、そこでバランスを崩して真希は派手に転んでしまったのだ。交差点の四方にいる人たちも驚くくらい、見事は転び方だった。

「わー!」

真希が転んだタイミングで、すぐにそんな大きな声が響き渡り、自転車が急ブレーキした。

「あぶない!」

自転車の主の女は大きな声で言った。その後ろで女の子が笑った。

真希はすぐに立ち上がるが、そこでさらにバランスを崩し、自転車の前の籠を思わず掴み、自転車もひっくり返りそうになった。しかし自転車に乗っていた上野裕美はすぐに足で踏ん張り、自転車の転倒は免れ、目の前で転んだ女性に手を貸した。

「大丈夫ですか?」

裕美がそう言うと、

「は、はひ…」と、真希は情けない返事をした。

黒いスーツの膝や、ジャケットの裾、肘などには茶色い土埃が派手について、真希のサングラスは斜めにずれて、前髪がおでこに張り付いてた。さっきまでのクールでやり手の最強の丸の内OLの姿から一転し、コント番組で派手にずっこけた芸人のようだった。

「あ、こっちへ…」

裕美は自転車を後ろに少し下げ、真希もそれについて数歩歩く。車道に出ていたのだ。すでに信号は変わっていたが、右折しようと前に飛び出していた乗用車が一台、勢いよくカーブを曲がっていき、後ろにいたトラックは右折する第民具を逃し、中途半端な位置で止まったままだった。

トラックの運転手の男性は、うんざりした顔でこちらを睨み付けていた。明らかに二人は渋滞中の車道を塞いでいたのだ。

「すみません…」

マキは自転車の女性に謝ったが、心の中では恥ずかしさで一杯だった。自分が今どんな状態で、先ほどどんな風に転んだのかもよく理解していた。

「お怪我はありませんか?」

上野裕美が尋ねる。真希は自分の体をさっと見回して、どこも痛くないのを確かめる。いや、少し膝をぶつけたようだ。しかし、膝は大したことないが、服が…。

「あら、ヒールが…」

そう言う自転車の女性目線の先を追うと、折れたヒールが転がっていた。去年買ってから、まだ2、3回しか履いていないというのに…。

「怪我がなくてよかったです。私も急いでいたから、ぶつかりそうになっちゃって…」

裕美がそう言うと、

「いえ、私の方こそ…」

すごくきれいな人だ、と裕美は思ったが、きれいな人ほどこういうかっこ悪いシーンには痛々しく見えてしかたない。もし自分だったら笑い話になるのに…。美人は美人で面倒くさいのだろうし、ギャップが大きいのだなと思った。

「では、失礼します…」

真希はそう言って頭を下げ、信号は青になっていたにもかかわらず、反対方向へ歩きだした。とにかくここを立ち去りたい一心だったので、そそくさと逃げるように自宅の方向へ戻ったのだ。その顔は恥ずかしさよりも怒りと悔しさで一杯だった。

(なんで転ぶのよ!ヒールなんて履いたよ!私のばか!服も全部着替えて、クリーニングに出さないとならないじゃない!これは想定外!1日の予定が全部狂ったわ!どうしてくれるのよ!明日から通勤時間ずらさないと、「あ、あの派手にずっこけた人だ」って毎朝思われるじゃないの!)

普段が完璧主義者だけあって、ここまで想定外の事が起こると途端に感情的になり、メンタル崩れるのが彼女の弱点かもしれない。

とにかく真希は心の中で自分やら交差点やら駅前やら通学児童や自転車の主婦たちすべてに毒づきながら、バランスの悪いヒールで家まで大急ぎで歩く。爪先に負担をかけるので、ふくらはぎが痛くなりそうだ。

上野裕美は一瞬、転んだ女性が目も合わさずに立ち去る姿に呆然としたが、はっと思い出し、折れたヒールの部分を自転車を降りて拾い、立ち去ろうとするその女性に声をかけた。

「あの〜!靴!ヒール!いいんですか?まだ直せますよ?すいませーん!…」

しかし、車の音で聞こえないのか、ただ単に無視しているだけなのか、スーツ姿の女性は足早に駅の反対方向に戻ってしまった…。

「あーあ、行っちゃった」

裕美が言うと、

「あーあ」と娘が真似をした。

「真似しないの!」

「真似にしないの」

いつものやりとりだ。ここでムキになるとまた口喧嘩になる。

裕美は自転車に乗り、信号を渡ろうとしたが、ちょうどまた赤に変わったところだった。

「あー、最悪!絶対遅刻!ただでさえ遅刻なのに、完全遅刻!言い訳もできないじゃない!何よさっきの女!ちょっと転んだくらいで!」

裕美は自転車に跨りながらぶつくさと不平を述べる。目の前を大きなトラックが右折していく。運転手はさきほどこちらを睨み付けていたが、もう穏やかな顔だった。

「ま、いっか…」

裕美はトラックが走り去るのを見ながらそう思った。全部笑い話にしてしまえばいい。今日のことも、この忙しい毎日のことも。さっきのきれいなお姉さんも。


9 立川アケミ  午前11時11分

アケミはソファでうたた寝していたところを、静かに目を覚ました。
午睡の目覚めという感じはなく、眠り慣れた自分のベッドでぐっすり眠った後のような、じわじわとした覚醒の寝覚めだった。

「あら、寝ちゃってのね…」

独り言をつぶやく。この頃、家にいると独り言が増えたが、その半分はアケミ自身も無自覚だった。

長い夢を見ていた。自分が別の人間になっていた夢だ。彼女は毎日夢を見るタイプだから、そういうこともたまにある。しかし、今見ていた夢は、奇妙な質感が残っている。

アケミはソファから立ち上がる。体は軽い。夢の中でも軽快に歩いていたような気がする。まるで若返ったかのように…。

台所でお茶でも飲もうと数歩足を進めたところで、何か大事なことを忘れてるような気がすると、アケミは思う。

自分の服装を見てすぐに思い出した。そうだ、今日はヨガ教室の日だと気づく。しかし行ったはいいが、自分は始まる前に気分が悪くなって家に戻ったのだと。

(確か、事故があった…)

記憶は曖昧だ。スクールの仲間の小平さんが、そんなことを言っていたような…。近所で、それもすぐ近くで交通事故があったと。死亡事故があったのだと。

アケミは台所に向かわずリビングのテレビをつける。しかし、今のところそのようなニュースはない。

寝室へ行き、デスクに置いてあるノートパソコンを開き起動させる。アケミは週に二回、リモートで英会話教室をやっているし、年齢の割にはPC作業は若い頃から慣れていた。

インターネットで一通りニュースを調べる。念のためハッシュタグ検索もしてみる。自分の街の町名などを。最近、そういうことを覚えたのだ。

しかし、一つもそんなニュースはなかった。死亡事故となれば、ニュースになっていない方がおかしい。どうやら自分の思い過ごしだったようだ。おそらく、近所で事故があったと、小平さんが騒いでいる、という夢を見たのだろう。時々、夢なのか現実なのか、混乱することがある。

彼女はパソコンを閉じて、リビングに戻る。それからお茶を飲もうとしていたことを思い出し、オープンキッチンへ向かおうとした時、何気なく、先ほどまで自分がうたた寝していたソファが視界の片隅に入った。

(え?)

アケミは驚いてすぐに首の角度を戻して、ソファに向けた。しかし、ソファは自分が座っていた場所のクッションが斜めにずれているだけで、もちろん誰もいなかった。

もう20年以上前に亡くなった、母がそこにいたように見えたのだ。そんな気がしたのだ。ほんの一瞬だが…。

しかし、そう考えると母の気配を感じた。そんな気がした。

静かに祈る母の横顔。そういえばさっき、夢の中で自分も祈っていたような気がする。何を祈っていたのだろう?でも母に言わせれば、私が祈ったと事実が、すでに奇跡であり、神との交流であり、この世界の奇跡なのだ。だったらそれでいいではないか。

アケミは台所に行き、ケトルに火をかける。そして流しに置いてあるティーポッドを持ち上げ、今朝方飲んだ紅茶の葉を捨てる。軽くすすいだ後に、ネパール産のえぐみの少ないダージリンの茶葉入れた。

今日も、素晴らしい1日でありますように。お湯の準備ができるまでの間、アケミは心静かに祈っていた。母の横顔を思い浮かべながら。

終わり

⭐︎お知らせ

11月13日(土)心と体が出会うワークショップ「Seed」 京都 → 残席5名
11月14日(日)歩く瞑想の会 比叡山 → 満席

11月21日(日)心と体が出会うワークショップ「Seed」 東京 →満席→2名空きがでました。

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