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フランスで酷評された「モネ」、アメリカへ進出、そして成功を収める

睡蓮の絵で有名なモネですが、世間に認められるまでの道のりは、茨の道だったのです。
今回は、モネがどのように評価され、世界的な名声を得ていったのか、その軌跡を辿ってみましょう。

こちらの記事は、Podcast「アート秘話〜名画に隠された世界〜」にて対談形式で語った内容をもとに書いています。こちらの放送もどうぞよろしくお願いします!

印象派の誕生と苦難

19世紀後半のフランス美術界は、伝統的な古典派が主流でした。その中で、モネは「印象派」という新しい絵画スタイルの先駆者として登場します。

彼の目指したものは、光と色彩の表現。瞬間的な印象を捉えることに重点を置いた、それまでにない斬新な絵画でした。モネの絵は斬新過ぎて、美術業界に受け入れられなかったのです。

そこで、1874年、モネは仲間たちと共に「印象派展」を立ち上げます。伝統的な「サロン」に受け入れられなかった新しい表現を志向する画家たちの自主展示会でした。

しかし、この挑戦は成功を収めることはできず、失敗してしまいます。

印象派展は批評家たちから厳しい評価を受け、作品はほとんど売れませんでした。モネは経済的に苦しい状況は変わらず、その状態が長く続くことになります。

新しい表現を追求する気持ちと、生活の現実との間で、モネは苦悩の日々を送っていたのではないでしょうか。

印象派展を辞め、サロンに戻るも・・・厳しい状態

お金を稼ぐために印象派展を立ち上げたものの、期待した成功には至りませんでした。この状況を打開するため、モネは大きな決断をします。

それは、伝統的なサロンへの回帰です。

この転換は、モネにとって簡単な決断ではなかったでしょう。しかし、芸術家として生き残るためには、背に腹は変えられない状態だったのでしょう。

しかし、ここで興味深いのは、サロンに出品する際も、モネは自分の絵画スタイルを大きく変えることはなかったことです。

つまり、伝統的な絵画には戻らず、光を追い求め続けたのです。

やはり、伝統的なサロンでのモネの作品は、理解されませんでした。

細部まで丁寧に描き込む伝統的な絵画とは違い、モネの絵は大胆な筆致と鮮やかな色彩が特徴でした。

サロンの審査員からは「書きかけかよ、お前」という痛烈な批判を招いたのです。

この現象は、実は現代社会にも通じるものがあります。新しいテクノロジーや文化に対して、人々が批判的な目を向けたり、受け入れにくいと感じたりすることがありますよね。そのような、変化を恐れる人間の本能的な反応かもあったのかもしれません。

モネの信念:自己表現を貫く勇気

しかし、モネは自分の信じる表現を決して諦めませんでした。彼は経済的に苦しい時期も、自分の絵画スタイルを変えることはありませんでした。

サロンに出品する際も、他の画家たちがサロンに認められるために自分のスタイルを変えていた中、モネは違いました。彼は相変わらず「印象派」のスタイルで、光を表現することにこだわり続けたのです。

これは、周囲から見れば無謀な挑戦に映ったかもしれません。サロンに評価されないことは、ほぼ確実だったからです。

しかし、モネは自分の信念を曲げることはありませんでした。

新天地を求めて:イギリスでの挫折とアメリカでの成功

モネの運命が大きく動き出したのは、フランス以外の国に目を向けたときでした。最初の挑戦の地はイギリスでした。しかし、残念ながらここでも成功には至りませんでした。

しかし、モネはここで諦めませんでした。次なる挑戦の地として選んだのが、アメリカでした。19世紀末、アメリカは急速な経済発展を遂げていました。新興の富裕層が生まれ、彼らは新しい文化や芸術に強い関心を持っていたのです。

1886年、ニューヨークで開催された印象派展覧会。ここでモネの作品は、驚くほどの好評を博します。

モネのアメリカでの成功には、彼の才能だけでなく、彼を支えた人々の存在も大きな役割を果たしました。特に重要だったのが、画商の存在です。

デュラン=リュエルという画商は、モネの才能を早くから見出し、彼の作品を積極的に世界に紹介しました。イギリスやアメリカでの展覧会も、このデュラン=リュエルの尽力によって実現したのです。

これは、芸術の世界においても支援者の重要性を示しています。どんなに優れた才能も、それを理解し、世に広める人がいなければ、認められることは難しいのです。

アメリカの経済成長が後押し

アメリカで高く評価された時期の作品として、「プールヴィルの断崖の上の散歩」や「画家の庭」といった作品があります。

「プールヴィルの断崖の上の散歩」は、海辺の断崖を散歩する人々の姿を描いたものです。空と海の青、断崖の緑、人々の服の色など、さまざまな色彩が細かい筆致で描かれています。

「画家の庭」は、モネ自身の庭を題材にした作品です。中央に一本の道が通り、その両側に色とりどりの花が咲き乱れている様子が描かれています。

これらの作品に共通しているのは、「光」の表現です。モネは光の変化を捉えることに執着してきましたが、ようやくアメリカで彼の光に対する表現が評価されたのです。

アメリカでの成功は、モネにとって大きな転機となりました。経済的な安定を得たモネは、フランスのジヴェルニーに新居を構えます。ここで彼は、有名な「睡蓮」シリーズを含む晩年の傑作を生み出すことになります。

アメリカでモネの作品が受け入れられた背景には、当時のアメリカの社会状況があります。産業革命を経て急速に発展していたアメリカでは、経済が好況にあるなか、新しいものへお金が回りやすい状態にあったと言えます。

そのような中で、絵画として斬新な表現をしていたモネの作品は市場から認められたのでしょう。

モネの成功は、新しい芸術表現が世に広まっていく過程を示す良い例です。最初は理解されなくても、時代の流れとともにやがて受け入れられるようになるのです。

モネの場合、フランスという伝統的な美術大国では評価されにくかった作品が、新興国アメリカで高く評価されました。そして、今では世界中で評価されるようになっているのです。

まとめ

芸術は、作者の人生や時代背景を反映するものです。モネの作品を通じて、19世紀末から20世紀初頭にかけて、伝統的な美術業界が頭打ちになり、何か新しい表現方法はないか探索し始めた、激動の時代を感じ取ることができます。

モネの生涯は、芸術家としての信念を貫くことの難しさと、それが実を結んだときの喜びを教えてくれます。新しいものを生み出す努力と、それを理解し受け入れる社会の両方があって初めて、芸術は発展していくのです。

アートの世界は奥深く、見れば見るほど新しい発見があります。これからも一緒に、アートの素晴らしさを探求していきましょう!


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