投函されなかった手紙
歌が大好きな母だった。
パッチワークをしながらテレビから流れる歌謡曲のメロディーに合わせていつも口ずさんでいた。父、母、姉、私の家族四人でカラオケへ行ったのは私が中学生のころ。明るく社交的で歌の上手な母に似ず、内向的で音痴だった私は気恥ずかしかったが、家族で行った初めてのカラオケは思いのほか楽しいものだった。
赤い夕陽が 校舎をそめて ニレの木陰に弾む声 ああ 高校三年生~
母が舟木一夫の「高校三年生」を熱唱していたことを覚えている。中学生時代から舟木一夫のファンだったことと、若いころの父が舟木一夫に似ていて街でよく間違えられたことは、私にとって大切な事実だ。
同年齢の二人は同じ高校に通っており互いに面識はなかったが、母は野球部のエースだった父の存在を知っていた。高校卒業後に東京の短大に通っていた母が大学生の父に手紙を出したことがきっかけでつきあうようになり結婚に至った。私がこの世に生まれるきっかけを与えてくれた歌と言っても過言ではない。
と、これだけなら一途な思いが実った、美しい話になるのだろうが、母の妹である叔母によると事実は違う。
実は母は、父だけでなく同じ高校の男性複数人にも手紙を出していた。
そのうち返信を書いたのがたまたま父だけだったらしい。そんな事情を知らない父からしてみれば、見知らぬ同窓生の女性からの手紙に律儀に返信したまでのことだったのだろう。ちゃっかり者の母らしい。とにかく、母にとってはもちろん私と姉にとっても結果オーライだったのではないか。母は好きだった舟木一夫似の父と添い遂げることができ、私たち姉妹も生まれることができたのだから。
6年前に母はガンで他界した。
異変を感じて病院で診てもらった時には既に症状は進行しており、医師からは余命半年と言われその通りに世を去った。毎日、実家の父と姉が交代で病院へ行き母を見舞った。東京に住んでいた私は毎週末母のいる栃木の病院まで行った。健康でいてこそ歌を歌える。病院での毎日が日常となった母の歌を聞くことはなかった。
64歳という年齢で亡くなるなんて、と親戚や母の友人の方々が悔やんだ。もっとこうしていれば、ああしていれば、母はガンにならなかったのではないかという思いが長く私の脳裏を支配した。
遺品整理をしていたら手紙の束が出てきた。その中に書きかけらしい父あての封書があった。
「健司さん この前友達と新宿のゴーゴー喫茶へ行ってきました。踊ってるうちにみんな気分が乗って夢中で楽しんじゃいました」と書かれた便せんと、ミニスカートをはいた母と友人の女性数人が踊る姿を撮ったモノクロ写真が入っていた。
日付は1969年。母が短大に通っていて父とやり取りを始めたころの何気ない近況報告のようだ。写真に収まった彼女たちは服飾を学ぶ学生らしく可憐かつ格好よく洋服を着こなしていた。若さ溢れる、美しい一枚だった。なぜ手紙を出さずに手元に置いていたのかはもはや分からない。父に手紙を見せると、無言で頷き微笑んでいた。他にも悩みを綴った日記が出てきた。子どもの私から見ればいつも朗らかな母だったが、人間関係や体調のことで悩みを抱えていたようだ。姉を生む前に流産を経験しており、生まれることのなかった水子に対しての思いが日記に綴られていた。父からの労りの手紙がその箇所に大切に挟まれていた。
投函されなかった手紙、伝えられなかった思いや無数の言葉を抱きしめて、あるいは引きずって私たちは生きている。故人とは離れ離れになろうとも、残された言葉や写真を通していつでも会いに行けるような気がしている。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。