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ジョバンニの買った夢

歩道の脇、食料品スーパーの前、メトロの構内、メトロの車内、ありふれた日常の中、日本では全く見かけない光景というものがここフランスにはある。
物乞いである。

自国の紛争で自国を去ることを余儀なくされたいわゆる難民とよばれる人たち、高い失業率や病気のために職を失い、もしくは企業に失敗し、果ては住む場所さえも失った人たちが、歩道の脇、道端に座り込んで道行く人へ物を、ほとんどの場合はそれはお金であるが、恵んでもらうよう声をかけているのである。メトロの車内では大きな声を張り上げて演説のように置かれている状況を語り、乗客のもとを回っている人たちが大勢いる。

フランスで生活するようになって何年も経つが、その光景自体は見慣れるものの、物乞いで座っている人の前を通る時というのはいつもいたたまれない気持ちになり、自然に通り過ぎるということができない。

中央にそびえ立つ一本の松の木が目印の広場の前をいつものように通りがかった時、ひとりの男が広場にある水飲み場で頭を蛇口の下に向け、髪を洗っているのを見かけた。男は灰色のTシャツの上に、古びて色がくすんだ黒いジャンパーをはおり、すすけた黒色のジーンズを履いている。長身の体を折り曲げるようにしてなんとか低い位置にある蛇口から流れる水で髪を濡らしている。何気なくその姿を目で追っているうちに、どこかでその男に会ったことがあるような気がした。顔がよく見えないので結局会ったことのある人なのか特定できず、わたしはその広場を通り去った。

次の日、広場からさほど遠くはない食料品スーパーの前の道を通ろうと向かいの道から横断しようとした時、昨日広場で見かけた長身の男がスーパの脇で道端に腰を下ろしているのが目に入った。道を渡り、その男の顔を見た瞬間、息を飲んだ。
ジョバンニだった。

二年前、この南仏の街に引っ越してきたばかりの頃、わたしは港地区に住んでいた。その頃住んでいたアパルトマンは、港の教会のすぐ裏、中心地から近いわりにはひとつ通りを奥に入るので真夏でも観光客の流れはさほど激しくなく、わりと静かに暮らせる場所にあった。そこから5分も歩けば、レストランやお洒落な雑貨屋やカフェなどが並ぶ通りがあり、地元住民しか知らない美味しいお店などもあり、その界隈はとても住みやすい界隈として知られている。当時は引っ越ししたてで全く知り合いもおらず、定職にもついてなかったので、毎日界隈を散歩したりカフェに行ったり、街の暮らしに馴れるのを楽しんでいた。

ジョバンニが恋人のカリーヌと経営するビストロは教会のすぐ裏にあった。長い手をめいいっぱいに動かし、長身の体を折り曲げたり伸ばしたり身振り手振りを加えて大げさに話すジョバンニはイタリアン人。束ねた黒い髪と灰色の瞳、スタイルがよく都会的な遊びを取り入れた着こなしで、お客にも笑顔とハスキーボイスでサバサバと会話をするブルターニュ出身のカリーヌはフランス人。ふたりは、パリで30年間レストラン業を営み、50代も半ばを迎え、半年前からこの街に引っ越してきた。一年を通して温暖な気候、ジョバンニの祖国イタリアからも近く、地中海の香りが色濃く漂うこの街でゆったりと老年を迎えようと、財産をはたいて港近くのこのビストロを居抜きで買い上げた。
教会の表通りと違って、裏通りは夏でも比較的人通りは少ない。とはいえ、港の表通りから流れてきた観光客で、夏のランチ時間のテラスは賑わっていた。わたしはたいていランチ終わりの時間にコーヒーを飲みに時々顔を出していた。

11月に入り、徐々に気温が下がり始める。いくら冬でも温暖な気候の地方とはいえ、目に見えて街には観光客の姿が減る。海沿いや観光客の多い通りのカフェやレストランは、夏のかき入れ時のみ営業し、夏が終わると一旦店を仕舞うところが多い。そのせいで、気温が下がると同時に街全体にはなんとなく裏寂しい空気が漂う。 反対に喜ぶのは住民で、夏が終わって街には騒がしい観光客も居なくなり、落ち着いたこの界隈は一層過ごしやすいと評判だ。

寒さも比較的穏やかなある日の午後、近所の海沿いを散歩しようかと近くに住む友人と落ち合い、外に出た。ジョバンニの店の前を横切ろうとした時、ジョバンニが店から出て来た。目に見えて元気がない。夏が終わり、人の入りが減ったことによる経営の心配と疲れを隠しきれない様子だ。わたしと友人はなんとなく素通りできず、彼の店でお茶をしていくことにする。

テラスに座って友人とふたりエスプレッソを飲みながらお喋りに興じていると、しばらくして店内の奥からジョバンニの怒鳴り声が聞こえた。驚いて思わず店内を見る。奥からこちらの方に向いていたジョバンニと目が合う。
「実は彼がカーリーヌに怒鳴るのを聞いたのは今日が初めてじゃないんだ。」
友人がわたしに顔を近づけて言う。
「この間も店の前で彼が怒鳴る声を聞いたよ。多分経営のことだと思う。大きな音も聞こえたし、カリーヌに手を出してたりしなきゃいいんだけどね...。」
わたしたちはどちらともなく、そろそろ行こうかと席を立ちかけた。

すると店の扉が開き、ジョバンニがテラスに出て来た。ほのかにアルコールの香りが彼から漂う。
「さっき大きな声が聞こえてしまったでしょ。見苦しいところを見せてしまってごめんよ。僕の声は昔からよく通るんだ。これお詫びにどうぞ。」
彼はチョコレートケーキがのった皿を、長身の大道芸人のように大げさな身振りでわたしたちのテーブルに置いた。

夏のまぶしい光だけを求めて南仏に来たものの、彼は南仏にも冬が訪れることを忘れていたようだ。夏の光が眩しければ眩しいほど、その先にある濃い冬の影が見えない。

会計をしにテラスへ出てきたカリーヌの目が赤くなっている。会計を済ませ、彼女に「ケーキ美味しかった、ごちそうさま。」と言うと、「美味しいでしょ、わたしが作ったの。故郷ブルターニュの名物よ。」と伏せていた顔を少しあげ、嬉しそうに言った。
夏が終わっても輝く彼女の笑顔をどうぞ大事に冬を越してください、と心の中でジョバンニに伝え、店を後にした。

それから半年も経たないうちにわたしも港界隈から街の中心地へ引っ越し、何か用事がある時でないと港界隈へは足を伸ばすことが少なくなっていた。客足も芳しくなく、ジョバンニの店は閉めたり開いたりを繰り返していたらしい。そしてまもなく閉店したのだと人伝いで聞いた。さほど親しい間柄というわけではなかったので、彼らのことを思い出すこともほとんどなくなっていた。

それから二年経った今、わたしは物乞いをするジョバンニを路上で見かけた。あれから彼に何があったのかは想像もできない。

パリでは働き詰めだったからね、この店は僕たちの年金だ。ここに老後の夢を買ったんだよ。
と、長い手を動かしながら嬉しそうに語っていた彼を思い出す。

街が持つ陰影とともに暮らす。
雨の日が少ないこの街に、今日約一カ月ぶりに雨が降っている。

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