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Paris 私的回想録 - 6 区 -

初めてパリを訪れたのは、今から十年以上も前、当時働いていたアパレルブティックで次シーズンの秋冬物を買い付けるための1週間の出張旅行だった。その当時働いて会社の女社長から、次のパリコレクションの買い付けにあなたを連れて行くわと任命され、彼女と専務を務める彼女の夫と三人の旅だった。

わたしがその当時働いていた会社が経営するブティックはパリやミラノコレクションが好きな人なら誰でも知っているそれはそれは錚々(そうそう)たるブランドを取り扱うセレクトショップで、女社長が一代で築き上げ、セレクトされた洋服の目をむく値段と現代アートのようにディスプレイされたショーウィンドの風格から、その当時は街で一目置かれていたブティックだった。
わたしは大学を出てすぐそのブティックで社員として働くようになった。アパレル業界ではさほどめずらしくないと聞くが、そこは女社長が率いる独裁的な体制の会社であった。
彼女の言うことは絶対。任務は、彼女の頭の中にある”完璧な答え”に先回りして答え続けること。
彼女は同性に過度に期待を寄せるのか女性社員へのあたりはあきらかに男性社員へのそれと比べて厳しく、女性社員は長くは続かない。一番下っ端として入社したわたしは、三年と経たないうちに唯一の女性社員となっていた。
いつも彼女の顔色を伺い、潔癖な女社長の機嫌を損なわないようにガラス張りの窓は梯子に登って隅々までふきあげ、店内には一切の埃や塵が舞う隙をあたえず、店の売り上げ、報告、国内外ブランドのバイイング、個人売りもしっかり予算組みされた上での接客、彼女の趣味で飾る植木の管理やその他経理以外のほとんどの雑用をこなし、日々ハイファッションに身を包み12cmのヒールを履いて毎日店に立っていた。

アパレル業界の端くれで働いている者にとって、パリコレクションのショーに招待されること、そしてそのショーの前列に海外のジャーナリストと肩を並べて座席が用意されるということは夢のようなことである。
「はい、あなたの分ね。」と、わたしの名前が書かれた、ファッション雑誌には必ず巻頭に特集を組まれるようなブランドたちの招待状を受け取ったときは、天にも登る気持ちになった。

パリの天気は変わりやすいと散々いろんな人から忠告をうける。その上毎日スケジュールを組まれたショーにまさか同じコーディネートをするわけにはいかない。厚手と薄手のコート各1枚ずつ、ジャケット、シャツ、シルクのドレス、仕事用の手提げ鞄と食事用のポシェット、アクセサリー、タイツ、ピンヒールにブーツに、そして各ブランドの資料と、行きのスーツケースから重量オーバーすれすれで日本を発った。

今日は朝から4区の展示会場での来シーズン物の買い付け、そのあとは1区のショー会場へ、合間に取り扱うブランドの本店を視察、街に並ぶショーウィンドのディスプレイのアイデアを盗む、話題のセレクトショップをチェックし、昼食。夕方からは6区のショー会場に移動、現地で落ち合った社長の顧客を交えた夕食。朝から晩までスケジュールはパンパン、足も歩き過ぎてパンパン、早朝にホテルを出て、夕食を終えてホテルに戻ってくるのは夜中の0時を回っていることもしばしば。毎日がそんなスケジュールだった。
ショー会場で配られるファッションウィークのために作られた専用の地図を片手に、初めてのパリ、右も左もわからない、それでもいっぱしの業界人気取りで、見た目はバッチリハイブランドで固め、わたしは石畳を12cmヒールで歩き回った。

そんなスケジュールのなか、半日だけ自由な時間が与えられた。
とはいえ、初めてのパリ、フランス語は全くわからず、「出口」という意味の"Sortie"と書かれた地下鉄の表示板の読み方さえもわからないような者には、行き先にあまり選択肢はなかった。それでも与えられたつかの間の自由が嬉しくて、特に決まった充てもなくパリの観光地図だけを抱えて朝7時にホテルから飛び出た。
ホテルから歩いて5分ほどのところに、サンジェルマン・デ・プレという有名な教会があるらしい。名前はなんか聞いたことがある、そこに行ってみよう。
教会では厳粛なミサが行われている最中で、そこにわけもわからず参列してみた。教会の天井から差込む光の筋、足元に揺れるステンドグラスの光の色、祈りのフランス語、何もかもが初めてで幻想的、それでなくても浮き足立っていたわたしの体は、それこそ教会の天井に吸い込まれていくかのようだった。

暗がりの教会から出ると差し込む朝日に思わず目をしばたかせた。次はどこへ行こうか。そうだ、有名なカフェが近くにあるって社長が言ってたなと、パリのカフェの王道も王道、老舗カフェ・ドフロールを目指した。

メニューは入る前から決まっている。パン・オ・ショコラとエスプレッソ。本場で食べるのが憧れだったのだ。まだ誰も居ないテラスに座る。せいいっぱいの努力をして、フランス語で注文を伝え、最後に”シルヴプレ”を言うことも忘れなかった。
東洋人はそれでなくても年齢より10歳ほど若く見えるという。この高級地区のテラス席に座り、フランス語も話せない当時20代だったわたしは、店のサービス係りにはよほど滑稽、もしくは奇異にうつったに違いない。旅の恥は掛け捨て、若気の至り、日本語には都合のよい言葉がたくさんある。

そうやって朝食を摂っていると、隣の席に耳下で切り揃えられた少し白髪混じりのパーマヘア、一目見てデザイナーものとわかるような仕立てのよい全身黒をまとった50代半ばくらいの男性が座った。ちらりと目をやると、東洋人、どうやら日本人のようである。ここの常連のようで、流暢なフランス語で店員とひとことふたこと言葉を交わしている。
なんか、この顔見覚えがある。
失礼きわまりないがわたしはじろじろとその男性を眺めた。あ!デザイナーのWさんだ!と気づいた瞬間、思わず「あ!」とわたしの声が漏れていたのだろう、その男性と目が合う。気まずさで思わず「Wさんですか?」と声をかける。彼はパリコレクションでトップレベルを誇るブランドの日本人デザイナーで、自身のブランド名になった彼の名前はファッション好きなら知らない人はいない。日本からパリへ移り住んで長いとどこかの雑誌で読んだことがある。

彼はわたしの質問には答えず、静かに「学生さん?」と聞き返してきた。
学生ではないこと、日本にあるセレクトショップで働き、今回来シーズンの買い付けでパリコレに初めて連れて来てもらったことを話した。わたしの働く店の名前を聞かれたので答えると、彼はおもむろに目を細め、途端表情を緩めて静かに話し始めた。
実は、君の働く店の社長さんとは古い知り合いでね。当時僕のブランドを取り扱ってくれていたんだよ。
彼はオムレツを食べる手を休め、わたしの方へ身を傾け話を続けた。
こんなこと君のような若い人に話すようなことでもないけどね、君の社長と僕は途中でビジネスで仲たがいをしてしまって、彼女とはそれっきりなんだよ。僕はそんな風に彼女と縁が切れてしまったことを残念に思っているんだ。また彼女とビジネスを再会したいとずっと思っているんだけどね。

ところで君は、僕のショーには興味はあるかい?
思いがけないその問いに、自分の顔がみるみるうちに紅潮していくのがわかった。もちろんわたしの返事は決まっている。
明日の夕方は空いてるかな?もしよかったら、僕のショーがあるんだけど、秘書に席をふたつ用意させるから、誰か友達と来たらいいよ。招待状は秘書にバイク便でホテルに届けさせるから。それから、君の社長さんには、ぜひ機会があればまた話したいと伝えて。
ショーのチケットの件はあとで君の携帯に秘書から連絡させるから。

この想像もしない成り行きに、わたしは文字通り天にも昇る気持ちで、このままでは体が宙を舞うのではないかといてもたってもいられなくなり、W氏に礼を伝え、社長へ伝えておくことを約束し、浮き足だって店を出た。

その後取り扱いのブランドのショー会場で社長たちと落ち合い、すぐにW氏と偶然会ったこと、その成り行きを報告した。
すると話をしているそばからみるみるうちに彼女の顔色から血の気がひいてきた。
普段からわたしは彼女の顔色を四六時中伺いながら仕事をしているのだ。彼女の機嫌が変化したことはすぐさま気がつく。頭の中に警報アラームが鳴り響く。しまった、何かしでかしてしまったみたいだ。
あのデザイナーとよっぽどのことがあったのだろうか、W氏は社長のことを尊敬しているような話ぶりだったし、本当にもう一度友好な関係を結びたいと言っていた。恋愛ざたの問題などはまったく匂わなかったし、一体何が彼女の気に触ってしまったのだろう...
大好きなブランドのショーの真っ最中だというのに、そのことばかりが頭をぐるぐる回った。

その後ショーの最中も、ショーが終わってからも会場を出てからも、社長は一切わたしを無視し続け、目も合わせようとしなかった。彼女とひとことも話すこともなく夜ホテルに着く。自分の部屋に戻り、溜まっていた疲れとその1日の気疲れでどさりとベッドの上に倒れた。そのまま身動きもできず、10分ほど経った頃だろうか。部屋の電話が鳴った。
「ちょっとわたしの部屋まで来てくれるかしら。」
社長からだった。 時計を見るともう既に日付は変わり、深夜1時を回っている。
わたしは再度身支度をととのえ、階上にある彼女の部屋をノックした。

「W氏との今日のいきさつ、どういうことかもう一度話して。」
言われたように、初めから成り行きを事細かく話し、彼はあなたともう一度話ができるようになりたいと、そう仰っしゃっていましたと伝えたあたりで、彼女はわたしの話しを遮り、こう言った。
「つまり、あなたはわたしの名前を利用して、その有名なデザイナーにショーの招待状をもらったっていうわけよね?すべては分かって計算ずくのことだったのよね?だってわたしの名前を出さないと、彼があなたを招待するはずがないもの。」
わたしにはもう伝える言葉が浮かばなかった。なぜなら彼女はいつも自分の出す答えに完璧な肯定を、完璧な降伏しか求めていないことを知っているから。
「招待状が届いたらすぐにわたしに渡してね。まさか行くつもりじゃないでしょ?」

次の日、ホテルに届いていた招待状を手に、W氏の秘書にショーへは行けなくなった旨の連絡をした。するとすぐにW氏本人からわたしの携帯へ連絡がきた。
残念ながらショーにいけなくなった旨を伝え、詫びた。
もしかして、本当は社長が僕のことで気分を害したからなのではないですか?とわたしに問いただすW氏に、自分が他のショーの日程を間違えて把握しており、わたしのミスであなたのショーへはいけないのだと答えた。
彼は一瞬無言になった後、「大事なショーの席なんだ。ファッション界の仕事をなめるな。」と言い残し、ブツリと電話は切れた。しばらく、ツーツーと不通音を響かせる受話器を耳に当てたまま、わたしはその場に立ち尽くした。

次の日、ホテルの朝食の席で、届いたW氏ショーの招待状を社長へ手渡した。社長はそれをバッグへしまい、何事もなかったように、わたしたちは今からベルギーへ行くからヨーロッパの滞在を少し延長するわ、とわたしに告げ、気をつけて帰りなさいと笑顔を見せた。

社長たちと別れ、わたしは帰りの飛行機に乗るためひとりでドゴール空港までタクシーに乗った。滞在中初めて雲ひとつない青い空が広がっている。窓からは遠くにそびえ立つエッフェル塔が見える。初めて目にするエッフェル塔は青い空にぺたりと貼り付けられた切り絵のように見えた。それは重力を持った立体的な物体として存在しているようには見えなかった。
あれはただの切り絵なんじゃないのだろうか。
360度周りを廻って自分の目で確かめたい、自分の手で触れたい。そうしないとその先に進めない。

タクシーの窓からその切り絵のようなエッフェル塔だけを目で追い、帰国したら辞表を出しアパレル業界から足を洗うこと、そして今度は自分の意思でもう一度この街へ来ることを誓った。そして頑なな子供みたいにぎゅっと膝の上で手を握りしめ、目を閉じて、ただその誓いだけに集中した。

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