猫から見たトランスレーションズ展 @21_21 DESIGN SIGHT

猫的感性では「願い」と「祈り」は同じようなものである。しかしその違いを適当に説明するなら、「願い」が比較的具体的な夢を指すのに対し、「祈り」は形而上学的な対象とか、何か社会的善のようなぼんやりしたものを想定しているように感じられる 。


小雨の降る土曜の夕方、パートニャー氏が21_21 DESIGN SIGHTで開催されているトランスレーションズ展に行くというので、私も一緒に忍び込んだ。

(本展における)「翻訳」とは

トランスレーション 〜 翻訳というのは、ある言語・文化体系内部の表現を、他の言語・文化体系の中に、出来るだけその含意を保ちつつ移し替えようとする試みである。小説のような言語作品の翻訳が最もイメージしやすいものだが、本展における大部分の「翻訳」はそれとは異なる。

簡単には言語化できない個人のもやもや、視覚障害者のスポーツ鑑賞、植物の「声」、聴覚障害者にとっての音、いにしえの日本人の造形センス。言語がテーマの作品でさえ、そこで示されているのは、そもそも翻訳の難しい単語であったり、言語のネットワーク構造の視覚化であったりする。こういった一瞬、翻訳???と思ってしまうようなものこそが、本展の中心的な作品群だ。そして頭に浮かんだ「???」こそが、鑑賞者がはっとするような気づきを得る入り口でもある。

「翻訳」を支えるもの、意味

このような作品の根底にあるのは、翻訳の向こう側にいる人や生き物と、理解し合いたい、伝え合いたい、ともに歩みたいという情熱であろう。そして、その情熱を具現化しているのは個々の作品に用いられるアイディアとテクノロジーである。

テクノロジー自体に良い悪いはなく、そこに善悪を付与するのはそれを活用する人であることは今更言うまでもないが、それでも作品一つ一つから感じる情熱の切実さに、「ここにあるのは最良のテクノロジーの実例だ!」とでも言いたくなる。こんなにも肯定的な願いと祈りが満ち満ちた、美術/デザイン/テクノロジー展を、近年見たことがあっただろうか。

翻訳によって第一に利益を得るのは、もちろんその直接の受益者(英語→日本語翻訳なら日本語話者)だ。そして面白いのは、翻訳というプロセス自体によって、翻訳を必要としない側や翻訳者自身が、それまで気づかなかったような対象の新たな一面を発見してしまうことだ。これは、先日のTakram Radioで触れられていたように、例えば日本語作品を英訳することによって、日本語話者側の作品理解が深まってしまうことと同様であり、ディレクターのドミニク・チェン氏が本展を通じて伝えたかったことの一つもそれなのだろう。

本展の作品に触れる以前に、フェンシングがあのような感覚を持つ競技であることを、日本語があのような言語ネットワークのなかに位置づけられることを、はたして想像できただろうか?鑑賞者の多くが、会場を後にするときにはきっと、願いと祈りに裏打ちされた「発見」の爽快感を胸にすることだろう。

パートニャー氏、語る

さて、同行したパートニャー氏の感想はといえば、「患者、特に精神疾患患者の感覚を翻訳できないだろうか」というものであった。

彼の考えでは(と、ここで唐突にロボットの話をされたのだが)、ロボット研究における「不気味の谷」というのは、そのロボットが一見「了解可能性」を備えているように見えるが故に、そこからの逸脱として不気味さが感じられるのだという。精神疾患に対し一般の人々が感じているある種の抵抗感もそれに似て、了解可能性からの逸脱として生じているのではないか。もしそうなのだとすれば、全く別の思考体系の「翻訳」として精神疾患患者の世界を理解することができれば、患者が社会で受け入れられやすくなるのではないか、ということであった。

コミュ障を自称するだけあってか視点が独特だが、私はそれを聞いて、この御方は、(自称コミュ障のイメージに反して)人間というものをむしろよく理解しているのではないかと思った。ついでにちょろっと褒めておけば、なんだか優しい視点である。

そんなわけでトランスレーションズ展、パートニャー氏も、より広く人間社会も、(猫目線では)中々捨てたものではないと感じ入ったのであった。

なお余談だが、会場で色とりどりの柱の間を縫って歩くのはなかなか愉快なので、猫諸君にはオススメである。

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