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己の惑いを肯定する

まどう【惑う(動)】
1.どうしたらよいか判断に苦しむこと。
2.道や方向がわからなくなる。まよう。
3.悪いことに心が奪われる。
4.うろたえる。あわてる。

今日は「惑うこと」と、己の「惑い」と向き合うこと。
そして、己の「惑い」を愛することについて。

「迷い」と「惑い」

私は日々惑いながら生きている。
己の立ち振る舞いに惑い、関係に惑い、明日に惑い、当然のごとく生きることにも惑っている。
しかしながら、迷っている訳では無いのだと、私は言いたい。

「迷い」と「惑い」は音が似ており、しばしば似たような意味をもつように思われがちだが、実際には違う。

迷うことは道や方向が分からなくなることで、
惑うことは判断に苦しむこと。

つまり、「迷う」とは居場所がわからなくなることで、「惑う」とは悩むことだ。
また、「惑う」はおろおろと歩き回るよう弱さを感じ取れ、私はそれを非常に人間的だと捉えている。

「惑う人」を名乗るまで

優柔不断
物事の判断がなかなかできず、迷ってばかりいることを意味する四字熟語 「煮え切らない」「不決断」「ためらい」とも。

ものごとを決めるのに時間のかかる人間である。
私はいわゆる「優柔不断」であり、何事も決めることが出来ない自分にもやもやとする。(特に修論期はその決断力の無さ苦労した)

「優柔不断」はネガティブな四字熟語だ。
優柔不断が良い意味で使われることはなく、決断できないことを批判する言葉である。「優柔不断」で否定される''悩む''とはすなわち時間の浪費であり、無駄であるとされる。

ある時からそんな「優柔不断」という言葉に疑問を持つようになった。

果たして決断にかける時間は無駄なのだろうか。
効率的に決断できることだけが良いのだろうか。
時間をかけて丁寧に考えることや、己の納得を大事にすること、少しづつ歩むことは、いけないことなのだろうか。

私は悩む時間を自分のために大事な時間だと捉えており、むしろ人間らしく、情緒豊かなあり方ではないだろうかとすら思う。
また「惑うこと」が出来るのは決断に時間をかけられるという贅沢でもある。

だからこそ、私は「惑う」ことを大切にしたいと考え、「惑う人」を標榜することにした。
人間は惑いながら生きても良いのだと、私は思う。

惑う私と隠す人

日々惑う私がもう一つ気づいたのは、どうやら私は様々なことに惑っているらしい、ということ。
他の人がするりと抜けるような場所を見逃せず、それは何かと立ち止まること。
道を行くべきか、戻るべきか。
門に入るべきか、入らぬべきか。

「惑い」が多いことは、まるで体質のようなもので、いいことでも悪いことでもない。
決断の早い人を羨む気持ちはあるが、それでも惑うことは私の個性である。

一方、私は今まで自己が「惑う人」であると主張する人を見た事がない。

私はすぐに物事を決められます。
私は優柔不断ではありません。
私は惑ったりしません。

惑うことがネガティブなことのように、それは瑕疵であるとひた隠しにしている。

己の「惑い」を愛すること

あらためて私は、「惑うこと」を丁寧に生きることだと主張したい。
決めるべきに決められないことは大変かもしれない。それでも「答えが出せないこと」もまた私なりの答えなのだと思う。

それから、己が悩むこと、己が決められないこと、己が己なりに向き合い丁寧に考えることをあなたが認められなければ、それはとても苦しいことだろう。
あなたの惑いを愛せるのもまた、あなたしかいないのである。

あなたは、惑う人だろうか。
私は、惑う人です。

兎角に人の世は住みづらい

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