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「アートがわかる」がわからない

私は「アートがわからない…」と、日々アートを見て感じています。

でも掘り下げてみると、私は「アートがわからない」のではなく、
まず「アートがわかる」がどういう状態かわからないのだと思います

どこからがアートを分かったといえるのか、誰がアートを分かっているのか、どうすれば自分はアートがわかるのか、そういうことを掘り下げ考えてみようと思います。

今日はアートの”理解”の話。
noteは連続投稿するとバッジをもらえるのですが、せめて5日ぐらいは頑張ろうと思った最後の投稿です。ここからしばらくはゆっくりになると思います。5日で3万ぐらい書きましたが、書こうと思えばかけることに驚きです。

私は「アートがわからない」

そう考えたのは、いくつも展示会を見に行っていたころだった気がします。
もともと「アートが好き」というよりは、なんとなくの理由付けで大学時代からアートを見に行くようにしていたけれども、私にアートの素養はどこにもなかった。創作はしないし、しようとしてもできません。
そうこうするうちに、少しづつ感じていた違和感が、緩やかに確信へと変化しました。私はきっと「アートがわからない」人なのでしょう。

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だって、絵画を見てもアートの主題とかは何にも気にならなくて、毎回「色が綺麗だな」とか「うーん、不気味だな」とか「あっちの絵はほしいな」ぐらいしか感じません。

「あぁ、きっと、アートを本当に楽しむ人は、こんなどうでもいいことは考えていないのだろうな…」
「この中に書かれているモチーフも、テーマも、私は何も知らない」
「あぁ、すごい。このアートはこうやって見るんだ。この人は賢いな…」
「私の考えていることは稚拙だな…」
「なんというか、私、アート見るの向いてないんじゃない…?」

現代アート作品を見るともっと難しくて、なんで評価されてるかがわからなかったりします。

ゲルハルト・リヒター:Blood Red Mirror

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赤一色で塗りつぶされただけに見えるゲルハルト・リヒターのBlood Red Mirrorは110万ドル(約1億円)で落札されました。
私にはやけになって書いたようにしか見えない。

ジョゼフ・アルバース:Homage of Square (正方形賛歌)

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正方形を重ねただけ。
なんか好き。アルバースは家に飾りたさがあります。

たとえ私がこの絵が好きだったとして、それでもなんでアートとして評価されるかわからないな、と感じていました。
偉い先生や賢い友達、解説本を頼れば、そこには何かしらの解釈があって、でも私の中には何もなかった。私、アート向いてないみたい。

何となく楽しいと思っていたアートに対して、いつのまにか気後れするようになりました。それは嫌だなと思ったので、そこから脱するために、改めてアートを勉強しようとしました。

わかりやすいアートとわからないアート

確かに私はアートがわからないといっていましたが、なんとなく「わかりやすいアート」と「わからないアート」があるように感じます。
これは感銘を受けるかや、心が動くかどうかとは別の要素です。

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何でしょう、「実際に分かる」というより、左はわかる気がして、右はわかんねーとなる。この感じです。

こういうものを分けて、大衆芸術と純粋芸術、ポップアートとファインアートという言われ方をすることがあります。下は私なりの説明。

大衆芸術/ポップアート
すでに大衆化された芸術。いわゆる名画と言われるものもこのくくり。
誰が見ても価値がわかりやすい。
というか価値がわかりやすいから大衆芸術。
1950年ぐらいのアメリカン・ポップ・アートとは別概念なので注意。
純粋芸術/ファインアート
時代によって対象は変化しつつあるが、言葉通りの"現代アート"だと思っておけば概ね問題はなさそう。
まだアートかアートでないかわからず、議論・審議されているものたち。
元来”現代アート”とは、当代先端のアートのことを示し、古くなった”現代アート”は徐々に”近代アート”に変化する。そのため、19世紀後半の現代は印象派で、2020年の現代アートはインスタレーションやコンセプチュアルアートなどを含んでいる。

また、大衆芸術のように価値がわかりやすいものではなく、判断には芸術や文化、社会潮流に対する知識が必要とされる傾向があり、そのためハイカルチャーに属するものとされていた。
純粋という言い方は「大衆化されたものは純粋でない」というただの傲慢なので嫌い。

要するに、大衆芸術はもともとわかりやすく、ファインアートはもともと価値がわかりづらい。私は、そのファインアートがわかるようになりたかったのです。
多分ぱっと見わかりづらい絵を見て、「これは●●が△△」とかしこぶりたかったのだと思います。なんかハイカルチャー、ハイソサエティな感じするじゃんね。

「アートがわかる」がわからない

さて、どうすればファインアートを始めとした、「アートがわかる」のでしょうか。
偉い人の講義を聞けばいいかな。たくさん人と話せばいいのかな。それとも本を読むのかな。
何となく釈然とせずに悩む間に、私は、「アートがわかる」という状態がわからないということに気づきました。

「アートがわからない」で調べると、「アートはわからなくてもいい」、とか「アートは自分なりの解釈でいい」とか出てきていた気がします。

いやいや、まって、その主張はわからなくもないけど、私はアートがわかりたいの。そもそもアートがわかってるってなんですか。

先ず私は、アートがわかっている状態というのを言葉で説明したかったのです。

車が運転できる、というのは、おおむね「自動車の操作ができる+運転免許を持っている」ことを指し示します。
ピアノが弾ける、というのは、おおむね「任意の複数のピアノの曲をある程度の習熟度で演奏できる」ぐらいの意味を持っていると思います。
(私なりの解釈です)

では、アートがわかる、というのは、「アートが解説できる」ということなんでしょうか。

さらに掘り下げると、私には2つの疑問がありました。

1.アートを解説できなければ、アートがわからないのか
2.アートには”正しい”解説が存在するのか

1.アートを解説できなければ、アートがわからないのか

誰がアートをわかっているのか。
偉い先生や賢い友達、解説本を書いた人は、きっとアートがわかっているのだと思います。

しかし、アートがわかっていることに必要なのは解説なのでしょうか。
言語化できなければわかるとはいえない?

であれば、たとえ綺麗でアーティスティックなものを生み出せたとして、、それが解説できなければアートがわからないということでしょうか。

絵を見て「綺麗だな」と一言思うことと、絵のモチーフなどを「細かく解説」できることの間には確かに隔たりがありますが、だとするとどこからが「わかる」といえるのでしょうか。何について説明出来たらわかっていることになるの?
これはどちらかといえば、アートどうこうより、”わかる”という単語の不明瞭さの問題かもしれません。

どこからが「アートがわかっている」かを示す基準は、どこにもないのです。法律や条文があるわけでもない。理解度試験があるわけでもない。
でれば、「アートを解説できなければ、アートがわからない」ということもありません。
それでもなお、「アートを解説できなければ、アートがわからない」と感じるのであれば、それはきっとあなたがそう決めているのです。

2.アートには”正しい”解説が存在するのか

よくよく考えれば、私の目的は「アートを説明して偉ぶる」ことでした。
確かに、偉い先生や解説本のようにアートを解説できるのはかっこいいと思いますが、彼らの解説が正しいアートの捉え方なんでしょうか。

なんというか、彼らがアートの説明をするときに、美術史的コンテクストの話をすることが多い気がします。(根拠のない偏見です。もしこれが実態と異なり、もっと幅広い解説をしているにもかかわらず、このような根拠のない偏見を持っている人が世の中に多くいるとするのならば、美学者やアーティストは自分たちの姿勢を顧みるべきだと思います)

この絵は××派の△△が書いた絵で……この時代は〇〇という考え方が一般的で……これはそこに☆☆を取り入れていて、彼の幼少期のなんとかかんとかがなんとか…。
アートって、美術史や、本人のパーソナリティに詳しくないと語れないんですか?

例えば、文化史に詳しい人が建物や服装について話をするのは、アートの説明にはならないんですか?(それは文化史の説明と言い切るのでしょうか)
あるいは、紙や画材に詳しい人が絵が描かれてるキャンバスや絵の具そのものについて話をするのはアートの解説にはならないんですか?(アートにまつわる作者の背景はアートには含まれないのかどうか)
あるいは、心理学者が、絵のモチーフや構図を解説するのはそのアートの解説にはならないんですか?(芸術療法は心理分析の手法の一つにもあります)
それともものすごく現代的な手法を使って、その絵を数学的に類型化し、絵の美しさを工学と統計的に解説したら、それはアートの解説にはならないんですか?(発端は構図の研究や黄金比などに始まる。今らなもっと工学的・生物学的な話ができるでしょう。例えば色の比率が鑑賞者に与える影響の分析とかどうですか?)

アートをどんな切り口で切り取るか、それは鑑賞者のパーソナリティに由来するもので、「このような切り口で切り取らなければいけない」、というルールはないでしょう。
だからこそ、アートには”正しい”解説は存在しないと思います。

これに関しては、以前書いたので、こちらも読んでいただけたらと思います。改めて、アートは反射だと思います。

ただ、切り口は自由とはいえ、そこに掘り下げの深さは存在して、私が憧れていたのはきっと「掘り下げの深さ」だったのだと思います。
今は、自分なりの考えや経験、知識を基に、見たものを深く掘り下げることで、よりきちんとした解説ができるのだと、考えています。
(学問的なアートの見方が、ただ感想を述べるより掘り下げが深いことには、異論はないと思います)

「アートがわかる」は存在するのか

そうなってくるともうわかりません。
「アートがわかる」とか存在するんですか?

どこからが「アートがわかった」という基準もなければ、「正しいアートの語り方」もないわけですし、そんなのもの「アートがわかる」といえなくないですか?

これは完全に持論ですが、誰しも「自分なりのアートの見方」と「自分なりのアートの解説」ができると思いますが、「正しいアートの見方」と「正しいアートの解説」は人類には不可能です。それこそ神の御業です。
その上で、「美術史を大事にする見方」や「社会学を大事にする見方」、「自分の感性を大事にする見方」などが無数に存在し、学問的なアートの見方はそれらを掘り下げて、分析したものにすぎません。

「アートがわかる」は存在せず、きっと私はいつまでも「アートがわからない」と言い続けるのです。

一方で、「解説しやすいアート」と「解説しにくいアート」はあると思います。これらはそういうことだったのでしょう。

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私は今日も「アートがわからない」

アートは高尚で知的なものだと考えると、すべての作品において、何かを理解しようとか、吸収しようとか、あるいは自分が理解できないことにストレスを感じたりします。
私にとってアートは良いものですが、「アートが高尚で知的である」というのもまた、「アートの見方の一つ」に過ぎないと感じています。

私は今日も「アートがわからない」。
それでも私は私が楽しいので、私なりに楽しんでアートを見続けていきたいと思います。

終わりに

そもそも絵画はあんまりぴんと来ないんですが、
趙無極(ザオ・ウーキー / Zao Wou-Ki)とか好きです。

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ちょーかっこよすよな。
買おうと思ったら5~30億ぐらいするんじゃないでしょうか。
このような値段になるまでに、歴史的に評価されていった流れがあります。
気になる人は調べてください。西洋画と水墨画のフュージョンが評価された、みたいな話だった気がします。

あと、Jason Andersonも好きですが、Billie Eilishのアルバムの絵描いてからすごい人気になっちゃった気がする。

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これもめちゃくちゃいいですよね。
こっちはやめに1枚買いたいなと思ってます。
買おうと思ったら8~30万ぐらいじゃないでしょうか。こっちは手の届くところ。
そのうち誰かが彼を歴史上の中に位置づけるかもしれないし、位置付けないかもしれない。この時代の外せないアーティストになるかもしれないし、ならないかもしれない。

でも私からすれば、歴史上の意味や値段なんてどうでもよく(買いたいのであんまり高いのは問題だが)、見た人が何に価値を見出すかです。
今日はこの辺で。

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