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3movies|ゴヤの名画と優しい泥棒

ゴヤの名画と優しい泥棒』を鑑賞しました!
ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、フランシスコ・デ・ゴヤの肖像画《ウェリントン公爵》が盗まれた! という実話を元にした映画です。

フランシスコ・デ・ゴヤ 《ウェリントン公爵》について

フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)は、スペインの宮廷画家として活躍し、《着衣/裸のマハ》や《1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺》、怪奇的な表現で上流階級を風刺した版画集『ロス・カプリチョス』で知られています。
本作が所蔵されているのは、イギリスにあるロンドン・ナショナル・ギャラリーで、ウェリントン公爵もイギリス人。しかし、作家のゴヤはスペイン人です。
なぜスペインの画家がイギリスの公爵を描いたのでしょうか?

作品が制作された1800年代初頭、フランス皇帝ナポレオン=ボナパルトが、ヨーロッパ各地で侵略戦争をしていました。スペインでも、イベリア半島侵攻に対して民衆が蜂起し、スペイン反乱(1808-14)が起こっています。
ウェリントン伯爵は、1812年のサラマンカの戦いでイギリス=ポルトガル連合軍を率いた人物で、その時にスペイン入りして本作のモデルになったそうです。

ちなみに盗難事件のことは書かれていませんでした

美術館の名品ガイド『ナショナル・ギャラリー・コンパニオン・ガイド』(2004年)には、口を少し開いて前歯が見えている描写が、今にも話しかけてきそうな生き生きとした迫真の描写であると書かれています。
2020年に国立西洋美術館で開催されていた「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」展にも出品されていましたね。図録が手元にないのでHPの解説になってしまいますが、こちらでは「どことなく頼りない表情」と評されています。

映画では、本作品があまり評価されていなかったような描かれ方をしています。「そんなに価値のある作品には見えない」という記者からの質問に、美術館の担当者は「ゴヤの晩年の素晴らしい傑作です」くらいにしか答えていませんし(史実はわかりませんが)、展示室ではイーゼルにかけて飾られていました。
そもそもゴヤは王侯貴族を美化して描くことはせず、もしゃもしゃ系の筆致(粗め)なので、立派な肖像画というイメージは持たれにくいかもしれません。

この頼りなく見える貴族の肖像画《ウェリントン公爵》が、貧しい人々に救いの手を差し伸べない富裕層のメタファーとなって物語が展開します。

ストーリー

世界中から年間600万人以上が来訪・2300点以上の貴重なコレクションを揃えるロンドン・ナショナル・ギャラリー。1961年、“世界屈指の美の殿堂”から、ゴヤの名画「ウェリントン公爵」が盗まれた。この前代未聞の大事件の犯人は、60歳のタクシー運転手ケンプトン・バントン。孤独な高齢者が、TVに社会との繋がりを求めていた時代。彼らの生活を少しでも楽にしようと、盗んだ絵画の身代金で公共放送(BBC)の受信料を肩代わりしようと企てたのだ。しかし、事件にはもう一つの隠された真相が・・・。当時、イギリス中の人々を感動の渦に巻き込んだケンプトン・バントンの“優しい嘘”とは−!?

公式HPより

※以下、ネタバレあり

奥さん大変だな…

仕事をクビになりながらも執筆活動と社会運動にいそしむ楽天家のケンプトンと、一家の大黒柱として中流家庭の使用人を務め、汚い言葉遣いを嫌う厳格な妻のドロシー。
あらすじではタクシー運転手とありますが、実質無職でのらりくらりしているケンプトン。年齢や経済的な事情を考えると、せめてアルバイトしながら活動してくれればと、奥さんに同情してしまいます。
うん、まあ人のことを言えた義理でもないんですけどね!

この奥さんからの目線を挿入することで、観客は絵画盗難事件の顛末だけでなく、ケンプトン・バントンの人間性にも目を向けることとなります。

学の大切さ

ケンプトンの書いた脅迫状は、「詩人」「ドン・キホーテ」と称されるほど装飾的な文章で、裁判でも検察官からの質問に冗談で答えて、聴衆の心を惹きつけました。それは長らく戯曲を書いていたからで、ケンプトンには演劇、競馬、政治や歴史といった幅広い教養とユーモアがありました。

バントン家は決して裕福な家庭ではないはずですが、おそらく図書館などで本を読み、ときには、なけなしのお金で舞台を観に行っていたのかもしれません。また、「お金もないのによく美術館に行けたな」と思ってしまったのですが、ロンドン・ナショナル・ギャラリーも無料(企画展は例外)で入館できるそうです。
経済的には貧しくとも、本や芸術に触れることで人生に彩りが生まれ、いざというときには人の心を掴み、相手を納得させ、裁判に勝つこともできる(?)。
お金がなくとも楽しめる・学べる場所がある大切さを知りました。

あなたはわたし

事件の発端は、老人や退役軍人たちが公共放送(BBC)を無料で視聴できるように、身代金で肩代わりしようとひらめいたことでした。
ケンプトンは、貧しい老人から乗車料金を多く取れずにタクシー運転手をクビになり、上司の人種差別に意見したことでパン工場をクビになっています。殴ったり蹴ったりではないのですが、休憩時間に移民の彼だけ働けと命令する上司に、怒るのでも厳しく指摘するのでもなく「休憩時間はまだあるじゃないか」とサラッと言ってしまう。

ケンプトンは弁護士との会話で、「あなたはわたし」と説きます。彼の行動原理は「相手が社会的弱者だから助けなくては」という正義感や気負いではなく、「あなたはわたし自身だから同じ扱いをしよう、こうしたら状況がよくなるだろう」という自己と他者の同一視によるものです。
そのピュアさは諸刃の剣ではありますが、そこが人々を惹きつける魅力でもあります。

優しい嘘とは?

ケンプトンは、社会的思想に関する言動には正直な反面、多くの隠し事をしていました。パン工場をクビになりながら、購入したパンをキズ物にして持って帰ることでごまかし、絵画泥棒の実行犯である息子のジャッキーをかばって出頭しています。泥棒シーンでは顔を映さず、暗い中で体格もよくわからなかったため、完全にミスリードされました。

そしてもう一つが、ずっと悲劇を書き続けていたことです。ドロシーはクローゼットから娘の自転車事故を題材にした戯曲を見つけ、「娘の死を食い物にするな」と激怒します。さらに、先日投稿した作品も悲劇ものと判明します。明示されてはいませんが、他の作品も同様なのでしょう。娘の死は自分のせいだと責め続け、その贖罪のために悲劇を書き続けていたのです。
深読みをするならば、ドロシーが押し殺していた悲しみや怒りの感情の吐口になろうと、夢想家でちょっと頼りないおじさんを装っていたのかもしれません。

作品では、ケンプトンの行動を追いながらも、わかるのは周囲の人たちの気持ちや考えばかりでした。そして終盤、裁判にかかってから、自身の生い立ちや、何を思って絵画泥棒をしでかしたのか、家族のことをどう考えていたのか、彼の思想を形成してきたバックグラウンドが見えてきます。
映画を観ている我々も、彼の優しい嘘で騙されていたのです。


事実は小説よりも奇なり、何だか不思議でヘンテコな物語でした。


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