見出し画像

「意識高い系」というもの

こんにちは。前回の記事で、大学生にとって悩ましいトピックを増やすといいましたが、今回はその第1弾です。ある種の大学生に関連するトピックであろうかと思います。私が意識高い系でないとは言い切れませんが、今回は「彼ら」について色々感じることを述べてみます。ただし、この記事では私個人の「人生観」を述べるというよりは、「彼ら」について私個人の印象を述べるという形になります。

意識高い系の特徴をみる

意識高い系ってなんでしょうね。しっかりと定義してみようとすると難しい気がします。そんな中で私なりに考えた定義が、自己成長を常に意識し、自分が人生の主人公だと思っている人。いかがでしょうか。皆さんのイメージと合致しているものでしょうか。私的に「彼ら」は常に、より高みを目指さなくてはならないという自己ルールを持っていて、人生というものにきちんと向き合って、自分の「価値」をあげようとさまざまな行動を起こしているように感じます。

意識高い系というくくりが「揶揄」の意味を帯びるわけ

意識高い系というくくり、ちょっと馬鹿にしたような意味を付与されていると思います。なぜそうみられてしまうのか考えます。

①諦念から見た「彼ら」

まず、人生に対してある種の諦念を抱いた人から見て、「幼く」見えるというのがあると思います。自分の人生は自分の努力や主導権のもとで組み立てられるものではない、世界は自分を中心で回っているのではない、こういったある種のあきらめの気持ちというのは、多くの人が持つことでしょう。そうした考えを持っている人々からみて、「彼ら」が「起業」とか「留学」とか言っているのをみて、夢見がちなやつだなと思ったりするのでしょう。

②自分のこと好きそう


自分が世の中のリーダー、上位層だと思いたがっている、こういうイメージは抱かれやすそうですね。「一般の人々」よりも先をいくことにこだわり、「勝ち組」になることが重要だと思ってそうな感じはする。そうした、人の上に立ってやろうという思い上がった思想を持っていると、ある種の非難がなされる。個人的に思うのは、ただ自分が有能であると他人に思って欲しいからというだけで、意識高い行為をしている人が一定数いるのではないか、(また私もその一員では、)ということです。ちょっとそういう構えって、余裕がないというか哀れですよね。自分ドリブンな人生を描いている方が、内実あって輝いている人に見えると思います。

ただの嫉妬説

先程①としてあげた点に沿いますが、つまり意識高い系という一括りにして笑い物にする風潮は、自分の人生にしっかりと向き合っていない空虚な人々が負け惜しみに作り上げた産物だと、考えられなくもないと思います。頭の悪い、思い上がりたいだけの意識高い系はごく一部であって、人生に真剣に向き合うことはとても尊いことだと思います。

尊重の原則

意識高い系と呼ばれる人々や、そうでない人々、両方に重要なのは、自分の自由を手にしたくば、他者の自由も尊重しなければならないという原則を知ることだと考えています。「彼ら」の文脈で言えば、自分が自己成長や自己実現に他者の反感なく進めるためには、他者の人生観を尊重しなければならない、というわけです。尊重する、というのはまた範囲が広いようなところかと思います。私なりにこの他者との共存というのを考える際に使う言葉は、「受け入れなくていいからせめて受け止めよう」というものです。他者の人生観を内面化する必要はないが、「そこにある」ことぐらいは認めよう、そういうわけです。

今日は十分に彼らについて論じ切れた気はしません。このトピックはそれだけ要素に富んだテーマであるようです。タイトルを変えて彼らについてはまた記事にするかもしれません。今日はお読みいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?