『ペトリコール、君』①

*1


 その日は雨が降っていた。神夏磯れいは、傘を差したまま雨水の飛び跳ねるハンドパンのようなアスファルトを駆けていた。薄手のカーディンの腹にはコンビニで購入したロールケーキを抱えている。二十二時を回ったコンビニはスイーツの品揃えが悪く、わざわざ三件回って見つけたロールケーキだった。

 どうして僕がこんなことを、わざわざ、こんな雨の酷い夜に。そんなことを思っても、れいの頭に過るのは自分の思い通りにならなければ直ぐに暴れ回る双子の姉のことで、諦めるしかないことを悟っていた。れいは二十七年間生きてきたが、そのうち本当の意味で生きていたのはたった十五年間だけであった。れいが高校を入学した年、夏が始まるとともに姉はおかしくなってしまった。父の再婚がきっかけだった。姉のるりは美人で明るい、家族の自慢だった。姉の癇癪の矛先はまず継母にいき、それから父に向いた。次第に両親は家を開けることが増え、れいは学校を辞めた。父は毎月まとまったお金を振り込んでくれていたが、通帳を握っていたのはるりの方だった。我儘放題に金を使い込まれ、生活費はほとんど手元に残らなかった。れいには父へさらなる援助を頼むことが出来なかった。継母とは微妙な距離を縮められないまま疎遠になってしまっていたし、父にも幸せになる権利があると思っていたからだ。自身が犠牲になる道を選んでいることに気づけないほどに必死であったれいは、生活費を稼ぐために全てを捨てるしかなかったのだ。それは今この瞬間まで続き、突然ロールケーキを食べたいと騒ぎ出したるりのために、れいは大雨の中コンビニを回っていた。

 ビニール傘など意味もない横殴りの雨に、れいの栗色の髪とジーパンの裾はびしょびしょに濡れていた。何かを考え出してしまうと、自然に足が止まってしまうような空の重さに耐えられない。きっとこういうのが辛いという感情なのだろうとわかっていたが、それを言葉に出来るほどの余裕はとうに無かった。叶うのなら、今僕が踏んだような灰色の水溜りに溺れてしまいたい___そうすれば、泣いていたって誰にも気づかれないし____轟音に意識が置き去りになっていく。

 元来、れいのその瞳はきらきらとしていて綺麗なものだった。姉と似て整った顔立ちの彼は、笑えば風が吹くような男だった。様々な職歴を積んできたが、そのどれもが容姿が端麗であるという武器で戦うものであった。だからこそ、もうしばらく、仕事のための作り笑顔しかしていない。素の彼の目は濁った藍色の膜が張っていて、ああそれが、その時はぼんやりと景色を眺めていた。パノラマの中で、誰かと目があっていることにしばらく気づきはしなかった。

 雨のモザイクに掻き消されていた、その男の目は真っ赤に血走っていた。れいは、男の存在にはたと気がついた。もう何分もこうして立ち止まっていたようだ。途端、知らない人と雨夜に見つめ合っていることに恐れを抱き、また、家で待っているであろう姉のことを思い、れいは慌てて男の前を通り過ぎようとした。

「ちょい、そこのキレーなにいちゃん。今目ぇ合うてたやんか」

 地面を叩きつける水の音をものともせず、男の軽快な関西弁はれいの足を止めた。つい反応してしまったばかりに、無視して行くことも出来なくなり、れいはこの場から逃げる方法を考え、逡巡していた。その後姿に男のやかましい声が追撃する。

「おーい、聞こえてんのやろ?無視しやんといて」

 あまりのしつこさに、れいは観念して振り向いた。男は依然としてしゃがみこんだまま、じっとれいを見つめていた。

「僕に言ってます?」
「キレーな兄ちゃんなんてあんたの他に誰もおらんやろ」

 確かに周りには誰もいないし、綺麗な兄ちゃんという形容が似合う人はそういるものではない。しかし、綺麗なと言われて直ぐに自分のことだと認識することにも躊躇いはあるものだ。
 男はすっくと立ち上がり、れいへ近寄った。傘を固く握るれい手の上にその手を重ねれば、それは厭に冷たかった。

「なあ、飯食いに行かへん?」
「ナンパですか?」
「ちゃうねん。飯奢ってくれへんかって話やねん」

 そこはかとなく少年漫画仕立ての健康そうな容姿とは裏腹に、男の目は怪しく光っている。濡れていたのもあって、それはまるで青魚の鱗のように見えた。

「どうして僕が」
「金持ちそうやったから」

 何を見てそう思ったのか。れいは溜め息をつく。そんなようなことを言われたのは今回が初めてでもなかった。元々洗練された容姿に生まれているし、きっちりした性格故に人前に出る時は身なりを整える手間を惜しまないようにしていた。小綺麗な見た目、それから、お金は無いようで有るようで無い、といった経済状況。第一印象は少し高飛車な王子様系男子といったところだろう。しかし、金持ちがこんな雨の日にコンビニのレジ袋を持って歩いているものだろうか。稼ぎは悪くない。けれど、ほとんどを姉に吸い取られているから金銭的な余裕もない。そんな事情をこの変な男に話すつもりもない。

「お願い!俺いま金なくて何も食えてへんの!」

 いや、断るだろ。知ったこっちゃないし。と思いつつ。うーん、と頭の中はぐるぐる考えていた。そんなことよりも、とにかく、れいの頭を本当に支配していたのは「家に帰りたくない」ただそれだけだった。あまり直視しないようにしていた本音が一度出てきてしまえば無視も出来ない。先延ばしにすればするほど、その先は酷い結果しかないことも知っているのだけど。幸いにも、るりはれいに直接暴力を振るうことはしなかった。ただ暴れて家の物を壊すだけだ。今直ぐ帰ったところで、また明日には同じようなことをするわけで。

 足元、水溜りの上をぶくぶくと泡が流れていく。れいの頭の中はもうしばらく靄がかかったようになっていた。遠くで雷が鳴る音がして、無機質に騒ぎ立てる雨の轟音をぴしゃりと刹那断ち切ったように、れいの頭の中の何かがぶちんと切れた刹那、れいと男のてのひらから傘の柄が滑り落ちた。

「サイゼで喜んでくれますか」 

___雨の、雨の匂いがする___


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