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上田知華+KARYOBINの軌跡

4月27日に上田知華の訃報が出て驚きましたが、2021年9月に亡くなっていたと言う事で去年から噂は有ったのですが、どなたも詳しい事が分からず困惑しております。
私が上田知華+KARYOBINを初めてテレビで見たのは1979年初頭の小川宏ショーでこれは岩間先生もフジテレビがタクシーで迎えに来たと覚えておられたので間違いないでしょう。「オープンザウィンドウ」と言う曲が印象に残っていますが、レコードを買いに行ったら3枚目のシングル「ガールフレンド/BGM」が出ていたのでそれを買いました。当時大阪に住んでいましたので1980年仕事で東京に出て来て早速4月に渋谷の屋根裏と言うライブハウスに見に行きました。場所は雑居ビルの4階に有り、2,3階はロンドンと言う当時テレビで良く宣伝していた今でいうキャバクラみたいな所が有って、上田さんはライブが始まる前♬ロンドンロンドン愉快なロンドン楽しいロンドン♬と歌って「下から聞こえて来るかもね。」と笑っていました。
当時ライブに行くと初期はピュア通信と言う小冊子がもらえましたが、私が行った時はオーナーズクラブと言うファンクラブ誌を頂きました。

これは1979年4月頃からの第二期KARYOBINの紹介が載っており、当時雑誌インタビューはボップスアイドルとしての上田さんしか登場しませんでしたので貴重でした。KARYOBINはデビューした1978年8月から1979年3月頃までの第一期とそれ以降の第二期が有りますが、第一期はデビューシングル「メヌエット/二年前の雨」2nd「オープン・ザ・ウィンドウ/梅雨明けの頃」に写真が有ります。2ndの時はビオラが撮影に来ず当時の担当マネージャー田中徹が写って居ます。第二期は5月にLPが出てそれに映ったのが最初ですが、2ndバイオリンの深井治子はその時点でまだ決まっておらず写真には写って居ません。全員そろって写って居るのはシングル「パープル・モンスーン/サンセット」からで(ただしチェロは小林公明で無く川崎昭)、これが1番のヒットとなったので代表的な写真になりました。ピアニストの機嫌が悪いので他のメンバーが困っていると言うシンチエーションなのだそうです。シングル「ステンドグラス/TODAY」2ndLPにも全員で写って居ますが、それ以降は上田知華単独の写真かイラストでKARYOBINは登場しません。メンバーが固定されなかったからで、1980年以降1stバイオリン池上卓子は結婚引退、2ndバイオリン深井治子は故郷に帰って教師になり、チェロの小林公明はクラシック志向が強く止めて行きました。ビオラの岩間先生のみが1983年にKARYOBINが消滅する半年前まで在籍して居ました。その間塚原理実、金子飛鳥、溝口肇と言う人たちが在籍しました。

上田知華は1984年に単独のLP・CDを出し、1983年には松田聖子に曲を提供したのを始まりとして作曲家として活躍を始めました。1991年今井美樹に提供した「PIECE OF MY WISH」がミリオンとなり自身も「I WILL」「朝昼夜晴れ」「いつも2人で」「la la la」の4枚のCDを出しております。ただ、ライブは全く行われなかったので、我々仲間内でなんとか上田知華+KARYOBINを再現できないかと譜面を作りプロを雇い何回かの再現コンサートを行いました。下記は2010年立川のイタリアンのお店でお昼休みに借りてやった時の物。

2014年突如上田さんは「ワインと音楽」と銘打ったライブを始めます。最初見に行った時は本当にお久しぶりで感動しました。2019年末コロナ禍で行われなくなるまで続きましたが、落ち着いたら再開されると思っていましたので、まさかご病気でお亡くなりになっているとは思いもよりませんでした。2021年9月、何日かは分かりませんがひっそり亡くなられたのです。私が岩間先生にバイオリンを習っているモチベーションが少し下がりました。45周年を何とか二期KARYOBINのメンバーでやってもらいたかったのです。残念な事ですが、これからは静かに上田知華の仕事が語り歌い継がれてゆく事でしょう。ご冥福をお祈りします。


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