父との記憶

父が亡くなった。
死亡診断書を見ると、死因は、転移性脳腫瘍、と。
昨年12月に脳の検査、手術を行ったが、その後、余命を伝えられていた。
だいたい伝えられていたとおりの期間だったように思う。

手術後は、姉が父の家で面倒を見るようになっていた。
最期の3ヶ月くらいになると、べったり介護が必要な状態になっていて、
介護保険のサービスを使いながら姉が熱心に世話をしてくれていた。
姉は兄弟たちに父の様子をこまめに連絡してくれたりもしていて、
おかげで父がいまどんな状態か、ということがよくわかった。

余命は隠さず父に伝えられていた。父はクリスチャンだったから、
まだ口が効くときから「神様のところに行けるから心配ない」と言っていた。
最期のほうは確かに高熱や身体の痛みがあって苦しそうだったが、
神様にすがるように祈るようにして旅立っていった。

残された者として、たしかにさびしく思っているが、
ひどく悲しみに打ちひしがれる、という状態にはならなかった。少なくとも現在は。
きっと、父の信仰に、自分も勇気づけられている部分があるのだと思う。
信仰、という言葉を使うと、ちょうどいま世の中でどーのこーの言われていることがあって毛嫌いする人もいると思うが、全部が全部、悪いものではないと思う。

亡くなる前日も、父に会いに行っていた。
起き上がれない状態だったけど、僕が声をかけるとぼくのほうを見て
「よくきた」と(口にはしてないけど)いうふうに迎えてくれた。
会話はできないけれど、僕が話しかけることを聞いて分かっているようだった。

むせこみがひどくなって、ついに口からは食べられない、飲めない、という状態。
終末期医療を施してくれる訪問看護のケアを受けていて、
シールタイプの解熱剤や痛み止め、点滴による水分摂取が行われていた。
効き目が出て、スースーとおだやかに寝ているときもあれば、
思い出したように「ウー、ウー!」とうなり苦しむ時もあった。
おでこをなでたり、手をすりすり触ったり、痛みや不安が和らぐように声をかけた。
その夜、僕は自分の家に帰ってしまったのだけれど、
姉といっしょに、父のそばについてあげればよかったな、と少し後悔している。
姉は「しょうがないよ」と言っていた。

翌朝9時過ぎ、姉から電話があった。
「息が止まったみたい。。いま先生にも電話したよ。来てくれる?」
わかった、と返事をして電話を切ったあと、少しボーッとした。
「あぁ、ついにこの日が来ちゃったか」とさみしい気持ちが湧いた。
準備して父の家に向かった。

父はきれいな、おだやかな表情で横たわっていた。
なんと、スーツにネクタイを締めて、手を組んで仰向けになっていた。
立派な姿だった。
姉が着替えさせてくれていたのだった。
「お母さんのときに、そう思ったから・・」と言っていた。
5年前、病院で母が亡くなったときも、姉は遺体の着替えを手伝ってくれていた。
前回は、看護師さんといっしょに。
今回は、僕や兄が駆けつける前に、ひとりで着替えさせてくれたみたいだ。
最期の最期まで、懸命に父をケアしてくれた。
ほんとうにありがとう、姉さん。
姉さんの世話がなければ、親父もここまで安らかではなかったと思う。
葬儀屋さんも、びっくりしていたよ。


昔、よく父といっしょに銭湯に行った。
姉や兄たちも連れられて行った記憶があると思うが、
僕と父が2人して銭湯に行った回数はハンパではないのだ。
それが、一番に思い出される父との記憶だ。

お気に入りの銭湯屋があったけれど、そこをベースにしつつ、いろんな銭湯に行った。
晩年、医者に止められてからはパッタリと行かなくなってしまったが、
それまで。
そうだな、ぼくがうんと小さい頃から成人して以降も一緒に行っていたから、
頻度の差はあれど、20年は父が銭湯に行くのに付き添った。
なんとなくその思い出が誇らしいからここに書いているのだ。

たいてい、いつもサウナ付きだ。
あるときは夕方からでかけて、ラーメンなどを食った後に入りにいったり。
あるときは、21時とか、家でごはんを食べたあと遅くなってから出かけた。
サウナに入り、水風呂に入り、というのを最低4度は繰り返していたし、
茶色い薬湯や、露天風呂、打たせ湯だとか、各湯船に浸かるのも楽しんだ。
だから、父が「銭湯に行ってくる」と母に告げて出かけるとき、
2時間ぐらいは帰ってこない、というのを母は知っていた。
「はいはい、行ってらっしゃい」と送り出してくれていた。

強かった頃の父は、15分は平気でサウナで粘ってた。
60近くなると7、8分で切り上げるようになっていた。
よく父とがまん比べしたものだ。
身体を悪くする前、健康診断などでも、
サウナ・水風呂で、急激に身体を熱くしたり、冷ましたりするのはやめなさい、
と言われていたらしい。でも父はやめなかったな。サウナ中毒だった。

それからテレビが置いてあるようなデカいサウナは、父はあんまり好きじゃなかった。
人の出入りが多くてサウナの効きが悪いし、テレビがうるさいし、
空間が広くて明るくて落ち着かない、と言っていた。
父は小さいサウナが好きだった。静かで、サウナの機械だけがパチパチと音を出しているようなサウナ。それから自分の好きな演歌が流れているサウナも好きだった。
ラジオから流れてくる演歌を、父はことごとく口ずさんでいたから、
「なんでも知ってるな!」とツッコんだ記憶があるし、
「よくこの暑い中で歌えるな!喉が焼けるよ!」とツッコんだ記憶もある。

・・・あるとき、サウナから出て2人して水風呂に入っていると、
若い兄ちゃんが勢いよくザパーンと入り込んできた。
けっこうなしぶきが、ぼくらにかかった。
「なんだこいつ」と思った次の瞬間、父が両手で水をすくい、彼の顔めがけて水をかけた。彼も、なんだ?! と思ったのか、父に水をかけた。それから父は、
「こっちが入っているのに、そんな入り方があるか!!」と怒鳴った。
ぼくはびっくりした。
ふだん、ニコニコ、というよりはニヤニヤ、ニカニカしている父だ。
初対面の人にも低姿勢で臨むことが多い父なので、こんなふうに怒ることがあるのか、とドッキリしたのだ。
それから、水をかけたそのアンちゃんは若いし筋肉質だったから、
「おいおい、ケンカをふっかけて大丈夫かよー」とヒヤヒヤした。水風呂に入ってたけど余計に。
だけど、そうやって父が諭したあと、その兄ちゃんは
「すんません…、」と言って引き下がった。
こどもごころに、親父がぶっとばされなくてよかったー、とホッとすると同時に、
・・・おうおう、親父、かっけぇじゃねえか、と思った一幕だった。

銭湯に行ったことがある人なら分かるだろうけど、
公衆浴場のマナー、というようなポスターが貼ってあるのだ。
風呂に入る前に身体を洗おう、とか、
よく身体を拭いてから脱衣室に出よう、とか、
髪を染めるな、とか、洗濯するな、とか。
後半はともかく、そういった入浴マナーはひととおり父から教わった。
だからポスターを見るたび、「そんなことは分かってるさ」と思ったのだった。
身体を洗う時、父は必ず僕の背中を洗ってくれた。
洗い終えたあと、今度はお前だ、というように僕が父の背中を洗った。
銭湯に出かけたときは背中を互いに洗い合う。
父が残してくれた、非常に有効な親子のコミュニケーション方法のひとつだ。

亡くなる1周間ほど前か。
ちょうど姉が出かけているタイミングで、2人で話すことがあった。
あまり父から聞かされることがなかった父の幼少期の話。
母からちらっと父が小さい頃の話は聞いていたのだけど。
本人の口からちゃんと聞いたことはなかったから、思いきって尋ねてみた。
戦争で実父を亡くしたこと、
お母さんが病気がちの人だったこと、義父から暴力を受けていたこと、等々。
父にとってはあまり思い出したくないような記憶だったようだ。
僕が聞いたからいろいろと話してくれたけど。
自分から聞いといてアレだけど、悪かったなぁと思った。
でも、父の知らない部分を聞けてよかったな、とも思った。

それから職場で母と出会ったこと
さんざん迷惑かけたけど出会えて良かった、とか。
僕が、上で挙げたようなサウナの話もしながら、
父さんの子で良かったよ、と伝えると
変な顔してウン、というようにうなずいてた。

ありがとうね、父さん。
さすがに物が多いからさ。
もうちょっと家の片付けには時間がかかりそうだよ。
これで親がどっちもいなくなっちゃったわけだ。
兄姉弟、声をかけあいながらうまくやれたらいいな、と思うよ。
さいわい、仲は良いほうだからね。
きっとなんとかやっていけるよ。
なんかひどい感じのときは、なんとなく助けてね。笑
そんじゃあひとまず。お疲れ様でした。

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