【母方ルーツ#13】羽咋編④北海道の赤レンガと群来
いつもご覧頂きありがとうございます。
羽咋編の4回目です。
前回からの宿題は、
1.イヨ(私のルーツ)と久松(Mさんのルーツ)の関係を探る
2.兄十助の転々の謎を探る
でした。
私の曽祖母イヨとMさんの祖父久松、この時点では2人の血縁は確認できておりません。
まずは追加の戸籍を取得したことをMさんに報告いたしましょう。
白石村87番地
今回も往復書簡、私からMさんへのメールを抜粋します。
Mさんの著書「私のルーツ」の中に、久松は鈴木煉瓦工場で工場長を勤めていたとの記述がありました。
札幌の煉瓦は明治期の重要な産業のひとつだったとのこと。
あの北海道庁赤レンガに使用されている煉瓦も、鈴木煉瓦工場で作られたものだとか。
この鈴木煉瓦製造場は開拓に入った人々
のかっこうの稼ぎ場所となり、農作業で生計が成り立つまで、ここで「出面取り」をすることが唯一の現金収入だったそうです。
職人たちはレンガ工場の敷地内の長屋に住んでいたといいます、まさに十助もそこに住まい、働いていたのでしょう。
驚きました!!
早速Mさんから返信がありました。
このメールにあるように確かに、十助の足取りは北海道の開拓の歴史に沿って探るのがよさそうです。
そこで、利尻の開拓の歴史を調べてみました。
利尻は明治以降の移住者、とくにニシン漁を担う人たちにより歴史を重ねてきた町であるとの事。なるほど、ニシン漁。
明治30年頃をピークに北海道の日本海側の港ははニシンの豊かな漁場として、本州、特に東北、北陸、山陰から多くの移住者、季節労働者で賑わっていたのです。
最盛期にはニシンの産卵時期には青い海が白く濁る「群来」が見られたといいます。
群来とは産卵のため大群で押し寄せたニシンの卵・放精によって海の色が乳白色になる現象のこと。
そして100年あまりの時を超え、ここ数年また北海道の海で群来が復活しているとのニュースも聞きます。
話を戻します。
おそらく十助もニシン漁で湧く利尻を目指したのでしょう。
十助が明治27年に白石に移住したとき、十助はまだ20歳でした。
父を亡くし、母と幼い兄弟を支える若き家長となり、既に妻も迎えています。
このときイヨは10歳、弟惣右ヱ門は7歳、下の弟外松は5歳。
北海道へは母と妹弟は同行せず、羽咋に残ったと考えるのが自然です。
のちに白石から利尻へ渡り、一度羽咋へ戻っているのが明治34年。
同じ地番に戻っていることからも、ここには母と弟たちが住み続けていたのでしょう。
煉瓦工場での賃金だけでは羽咋へ仕送りするには十分ではなかったのではないでしょうか。
そこで、より高い賃金を得られる漁場での出稼ぎ場所を求めたのではないか、と。
あくまでもこれは私の想像でしかありませんが。
ところで、私の祖母イヨは一体いつ北海道へ渡ったのでしょうか。
母から聞いた話ではイヨさんはかなり気の強い女性で、兄を頼り、船に一人飛び乗って北海道へ渡ったとのこと。
その後、札幌で住み込み奉公を経て曽祖父と結婚したようです。
そして11人もの子供を産むわけです…
それについてはこちらの記事に。
きっとイヨはその後羽咋に帰省することは無かったのではないかと思います。
母も帰郷の逸話は聞いたことがないと言います。
北海道に渡る際に「船に飛び乗った」とイヨ本人が表現した裏には言い知れぬ希望と覚悟があったのだと想像します。
さて、戸籍から得られる情報はここまで。
次の手がかりとなりそうなのは滝谷の古刹、妙成寺の歴史。
羽咋市歴史民族資料館にメールで問い合わせをすることに。
あとは私にとっては初めての試み、旧土地台帳を取り寄せてみましょうか。
なにか新しい情報に出会えるといいのですが。
本日もここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
(このシリーズ、まだまだ序盤戦です…)
《鈴木煉瓦工場に関する追記2022.10.22》
鈴木煉瓦工場と石川県の瓦との繋がりを示唆する資料です。
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