見出し画像

【母方ルーツ#13】羽咋編④北海道の赤レンガと群来


いつもご覧頂きありがとうございます。
羽咋編の4回目です。

前回からの宿題は、
1.イヨ(私のルーツ)と久松(Mさんのルーツ)の関係を探る
2.兄十助の転々の謎を探る

でした。

私の曽祖母イヨとMさんの祖父久松、この時点では2人の血縁は確認できておりません。

まずは追加の戸籍を取得したことをMさんに報告いたしましょう。

白石村87番地


今回も往復書簡、私からMさんへのメールを抜粋します。

Mさま

長濱十助戸籍からたどる足取りです。

明治27年に羽咋から札幌郡白石村87番地に転籍。
明治31年に白石から利尻へ、
明治34年に利尻から羽咋へ、
明治37(?)年に天塩へ転籍(この戸籍は現在請求中)。

「白石村87番地」をネットで検索すると、現在の本通9丁目あたり、かつての鈴木煉瓦があった場所との記事が出てきました。
鈴木煉瓦といえば、長濱久松さんが後に工場長を勤められていたとのことですよね。
なんと、ここでも接点を見つけることができました。

 
久松さんと十助はともに鈴木煉瓦で働いていた時期があったようです。その後久松さんは白石に根差し、十助ファミリーは更なる地を目指したのでしょう。
 
私の方で戸籍からの情報で遡れるのはここまでで、あとは墓参記録のある妙成寺を足掛かりに調査を進めていこうかと思います。
 

往復書簡  そら→Mさん

 Mさんの著書「私のルーツ」の中に、久松は鈴木煉瓦工場で工場長を勤めていたとの記述がありました。

札幌の煉瓦は明治期の重要な産業のひとつだったとのこと。
あの北海道庁赤レンガに使用されている煉瓦も、鈴木煉瓦工場で作られたものだとか。

この鈴木煉瓦製造場は開拓に入った人々
のかっこうの稼ぎ場所となり、農作業で生計が成り立つまで、ここで「出面取り」をすることが唯一の現金収入だったそうです。

職人たちはレンガ工場の敷地内の長屋に住んでいたといいます、まさに十助もそこに住まい、働いていたのでしょう。


現在の赤レンガ庁舎
北大付属図書館所蔵


明治17年創業鈴木煉瓦工場


驚きました!!


早速Mさんから返信がありました。

長濱十助(イヨの兄)が札幌白石村87番地に転籍していたこと、驚きました。
久松が85番地(現在の本通9丁目)ですから、至近距離です。繰り返しますが、十助と久松は相当に近い血縁関係にあったことがここでも証明されたと思います。


 鈴木煉瓦工場について、92歳の老母は「久松の家の前(すぐ近くの意味かも)に工場があった」と証言しています。そこが87番地だったのでしょう。87番地といっても広いので、十助家と煉瓦工場が同じ番地にあっても不思議はないですが、十助が白石を離れたのは、あるいは煉瓦工場に土地を売ったからでしょうか。この点は想像の域を出ません。
 
 十助が途中、ふるさとの羽咋に帰っている点も注目です。久松の妻「よん」には「とよ」という娘がいたことを書きましたが、「よん」は晩年、この娘が恋しく、羽咋に帰り(久松の没後かも)、そこで生涯を終えました。羽咋にも親族の一部が残り、交流が続いていたと思われます。
 
 それにしても十助の生涯も波瀾万丈ですね。利尻、天塩が出てきて、北海道の開拓史と絡んでいることがうかがえます。
 

往復書簡 Mさん→そら

このメールにあるように確かに、十助の足取りは北海道の開拓の歴史に沿って探るのがよさそうです。

そこで、利尻の開拓の歴史を調べてみました。

利尻は明治以降の移住者、とくにニシン漁を担う人たちにより歴史を重ねてきた町であるとの事。なるほど、ニシン漁。

明治30年頃をピークに北海道の日本海側の港ははニシンの豊かな漁場として、本州、特に東北、北陸、山陰から多くの移住者、季節労働者で賑わっていたのです。


最盛期にはニシンの産卵時期には青い海が白く濁る「群来」が見られたといいます。
群来とは産卵のため大群で押し寄せたニシンの卵・放精によって海の色が乳白色になる現象のこと。

そして100年あまりの時を超え、ここ数年また北海道の海で群来が復活しているとのニュースも聞きます。


NHKスペシャルで放送していました


話を戻します。
おそらく十助もニシン漁で湧く利尻を目指したのでしょう。

十助が明治27年に白石に移住したとき、十助はまだ20歳でした。
父を亡くし、母と幼い兄弟を支える若き家長となり、既に妻も迎えています。

このときイヨは10歳、弟惣右ヱ門は7歳、下の弟外松は5歳。

北海道へは母と妹弟は同行せず、羽咋に残ったと考えるのが自然です。
 
のちに白石から利尻へ渡り、一度羽咋へ戻っているのが明治34年。
同じ地番に戻っていることからも、ここには母と弟たちが住み続けていたのでしょう。


煉瓦工場での賃金だけでは羽咋へ仕送りするには十分ではなかったのではないでしょうか。
そこで、より高い賃金を得られる漁場での出稼ぎ場所を求めたのではないか、と。

あくまでもこれは私の想像でしかありませんが。

ところで、私の祖母イヨは一体いつ北海道へ渡ったのでしょうか。

母から聞いた話ではイヨさんはかなり気の強い女性で、兄を頼り、船に一人飛び乗って北海道へ渡ったとのこと。

その後、札幌で住み込み奉公を経て曽祖父と結婚したようです。


そして11人もの子供を産むわけです…
それについてはこちらの記事に。

きっとイヨはその後羽咋に帰省することは無かったのではないかと思います。
母も帰郷の逸話は聞いたことがないと言います。

北海道に渡る際に「船に飛び乗った」とイヨ本人が表現した裏には言い知れぬ希望と覚悟があったのだと想像します。


さて、戸籍から得られる情報はここまで。
次の手がかりとなりそうなのは滝谷の古刹、妙成寺の歴史。
羽咋市歴史民族資料館にメールで問い合わせをすることに。

あとは私にとっては初めての試み、旧土地台帳を取り寄せてみましょうか。

なにか新しい情報に出会えるといいのですが。


本日もここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。

(このシリーズ、まだまだ序盤戦です…)


《鈴木煉瓦工場に関する追記2022.10.22》

鈴木煉瓦工場と石川県の瓦との繋がりを示唆する資料です。

北海道札幌における製瓦は、北海道開拓使工業局明治12年、月寒村において工業局家屋等瓦試験焼工場を建設し、試作したのが札幌における「煉瓦づくり」の最初とされている。
山本はこの試作・開発の際し、同卿の敦賀から、瓦師を招き、札幌産瓦の技術補佐に当たらせていた。

一方、石川県出身(明治3年来道)の遠藤清五郎により、1880(明治13)年月寒村にて瓦の試作が行われたのが、札幌における民営瓦製造の最初とされている。
その後、明治17年に白石村にて鈴木煉瓦製造場が操業され、更に2年後の明治19年は同社の瓦製造の月寒分工場にて、その稼働が認められるが、前出の遠藤清五郎の瓦工場が鈴木煉瓦工場に経営吸収された「瓦製造部門」に様変わりしたものと考えられる。

北陸産瓦と北前船に辿る北海道の瓦史小論


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?