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「みんな我慢してるんだから、あなたも我慢しなさい」から「あなたも我慢してるんだね。お互いもう、我慢するの辞めない?」へ

欲しいおもちゃがあって

駄々をこねるたびに
わがまま言わないの!
と叱られながら

欲しいものを欲しいと言ってはいけない

と無意識に思うようになった。

そして
わがままである、
自分勝手である、
しなくてはならないことを
やりたくないなんて

人としてありえないこと


わがままなこと考えて
ホント、ダメだなぁ私

と思い込んできた。


自分が我慢していると
好き勝手やっている人、
わがままを言う人へは
「うらやましい」を感じる前に

腹が立つ。

もっと人のこと考えなよ
あんただけ好き勝手やるなんて許せない

ってな感じで。

おそらく、こんなふうに
「自分勝手でわがまま」であることが
許されない環境に居つづけたら

自分からまた他者に対しても
許さないというループが続く。

誰かから許される(という想定の)範囲でしか
動けずにいたら

本当に自分ができること、好きなこと
にも気づかないまま。

こんなことしたら
〇〇と思われちゃう
〇〇と思われたら嫌われる

嫌われたくない

嫌われちゃうと生きていけない・・・

これって、前にも書いたけれど
脳の生存本能と関わっている。

幼少期に
親から嫌われてしまうと
生存の危機。

なので、こどもは
大人に見放されないよう
大人の言うことを聞く。

そんなことが続くと
他者の基準が
私の生きていく基準になる。

自分では決められない。
誰かに「正解」を求めてしまう。

〇〇したいと思っても

「こんなことしても無駄」
「お金にならないし」
「私には無理かな」
「人に〇〇って思われるかな」

という感じでやめてしまったり。

もしくは
「人からよく思われる」
「人から褒められる」
「人から認められる」

という感じで、
やりたいことやっているようで
人からの評価が得られることが
採用理由だったり。

そうなってくると
本当には自分はどうしたいのか
なんて、まるでわからなくなる。

「なにがしたいかわからない」
「なにもできる気がしない」

そりゃあ、そうだ。

ずっと抑えこまれていたら
わからなくなる。

「無意識」としては
ハナから諦めの境地。

私は、中学生の頃に
あれが嫌だ
これが嫌だ
と先生にブーたれたら

「あんたは、文句ばっかり」
と先生から言われ

「あ・・・ こういうこと言っちゃダメなんだ」

と思った記憶がある。

自分のことを主張すると
嫌われるんだと思った。

今、これまでのことを振り返ると
私は、やりたくないことが
実にたくさんあった。

でも、
やりたくない
って言っちゃうと

人でなしだな、こりゃ
ダメレッテル貼られる

人にはそう思われたくない。

そんなふうに本音を押さえ込んでしまっているから
腹が立つし、イライラする。
モヤモヤする。

ホントはあれも嫌だし
これも嫌だ。

やりたくないことだらけだった。

やりたくないことを

やらなきゃ

と思うから、イライラするし
モヤモヤするし
腹が立っていた。

みんな我慢してるんだから
あなたも我慢しなさい

ってのが一番嫌だな。

—・—・—・—・—・—
あなたも我慢してるんだね。
もう、我慢するの辞めない?
—・—・—・—・—・—

そして、これからは
やりたくないことを嫌だ
と言い続けるのではなく

やりたいことをやる

と言い続けよう。

イライラしてるのは
他者に対してじゃない。

無意識には「嫌だ」と感じているのに
その無意識の言うことを聞かない
私に、だった。

ところで、私は家事が嫌いだ。
やりたくない。

料理も洗濯も掃除も
嫌いではない。

ただ、なんでわたしがやることになるのかな?
と思っている。

でも、相方のせいではない。

だから彼に怒るのは筋違いと
わかっている。

ただ、これからどうしていこうかと考えている。

本当にやりたくないときはやらなくていい。
そして、手抜きでも全然OK。
外食もいいし、惣菜もOK。

自分が作りたいなら
ご機嫌になるものをつくる。


今は、こんな感じだ。
外食も、惣菜も
手抜きも、そして
誰かに任せるのも

本当に嫌なら
そうするのがいい。

あなたの清きサポートでますますがんばれます٩( 'ω' )و サポートしてくださった分で見聞を得て、またおかえししていきます。