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戦争神話、平和神話、ペット

 180万年ほど前、アフリカ東部に「ジンジャントロプス」と「ホモ・ハビリス」という2種類の原人がいたという。菜食中心のジンジャントロプスに対し、ホモ・ハビリスは他の動物を襲って食べていた。われわれ現生人類はこのホモ・ハビリスの系統の血を引いているとされる。(現生人類とは繋がらずに絶滅した説もある)

 「弱肉強食」「食物連鎖」という自然界の摂理を表す言葉があるが、基本的にこの世界で生き物が生存するための前提条件は他者を殺す(食べる)ことにある。人間は古の時代からこの残酷で理不尽な事実に対し、様々な解釈を与える神話を生んできた。大きく分けると、その理を肯定し折り合いをつけていくための戦争神話、否定し耐え忍ぶための平和神話の2つだ。

 人類の長い歴史の中では、平和にまつわる神話よりも、戦争にまつわる神話の方が遥かに多いとされる。人の歴史のスタートとも言える原始的な狩猟採集社会は獲物を日々殺すことに加え、それを巡って近隣の部族との衝突も発生するからだ。このように自然界の闘争の摂理と密接にある社会が持つ神話において、戦いが忌み嫌われたり、絶対悪として表現されたりすることは無い。(そういう社会はあったとしても滅ぼされてしまう)

 原始社会の神話では、獲物は自分たちのもとに「食べられるために現れた自発的な犠牲者」だと解釈されることもある。動物の血は大地に流れ、再生の準備が整えられると再び現れる。命の奪い合いを壮大な母なる大地を舞台とした物語にすることは、ある種の正当化であると共に、狩りの戦士たちを戦いの興奮と熱狂から日常へと戻す働きを持っていた。

 社会が大きくなってくると、他部族や獲物との小規模な戦闘からもっと大規模な集団同士の戦争となっていく。人々の中では宗教が生まれ、神話もまた変容していく。戦争にまつわる神話は宗教体系によって違った形を見せるが、多神教か一神教かで違いが出てくるのは面白い点だ。

 多神教であるギリシアのトロイア戦争を描いた叙事詩『イーリアス』では、ギリシア軍とトロイア軍の地上の人間の戦争に対し、ゼウスやポセイドンといった天上の神々も敵味方に分かれてそれぞれの側を応援をする。この物語は本来はギリシア人を称えるものであるにもかかわらず、敵のトロイア人にも栄誉と敬意を捧げて書かれる。敵味方の区別はややボヤけている世界観だ。

 一神教であるユダヤ教の旧約聖書では、神は同時に敵味方を応援するのではなく、一方にのみ肩入れする。神の加護を得る側と、やられる運命にある側とがはっきり優劣をつけて分かれる。「あなたが行って所有する土地の者が抵抗するならば、男は皆殺し、女・子ども・家畜・町の物は全て奪い取ることが出来る」とか「あなたが彼らを撃つなら必ず滅びつくさなければならない、憐れんではならない」といったような凄みのあるテキストがある。こちらは勧善懲悪の世界観。

 日本は一般的に多神教とされるので、古代ギリシア的な世界観の方が感覚的に合う人が比較的多いのではないかと思うが、良し悪しの価値判断は置いておくにしても、現在のこの世界は一神教の世界観を受け継いだ人々によってリードされていることを考えると、この「強かさ」については考えさせられるものがある。

 残酷な自然の摂理を肯定するのが戦争の神話であるならば、否定するのが平和の神話だ。ただ、やはり俗世の存在には争いや欲望がつきものなので、平和の神話は概して夢想的、禁欲的なものになる。そして数は少ない。旧約聖書の65章には、捕食関係にある生き物たちが共存し、肉食獣が草を食むという楽園のイメージが表される。

 禁欲を徹底しているのは殺生を拒むインドのジャイナ教だ。肉食の禁止の他、小さな虫を吸い込まないようにマスクで鼻と口を覆い、果物は切り落としたり捥いだりせずに落ちてくるのを待つという。

 しかし、死や殺生を否定することは、同時に生命の誕生やあり方そのものの否定にも繋がってしまう。おかしな話だが、極論を言えば、平和な世界のためにはさっさと死んで自分がこの世から退場し、次世代も残さないことが正解になるからだ。

 ここまでの文章は、神話学者ジョーゼフ・キャンベル著『生きるよすがとしての神話』第9章 戦争の神話と平和の神話 を下地にしている。ご興味のある方は是非。

 現在、私たちが普段生きていく中で「神話」というものを意識することはあまり無い。神話というと古い価値観が今なおこびりついているとされる状態や、非科学的で荒唐無稽なものを指すなど、割と後ろ向きな意味で使われるようなことがある(例えば「母性神話」や「三歳児神話」など)。

 ジョーゼフ・キャンベルは、古代の神話は人々の心から失われたが、『スター・ウォーズ』がアメリカの人々にとっての現代の神話の一つだと言った。私も、実態がつかめないだけで何らかの神話はいつの時代も常に人間の心に、きっと今の我々の内にも根づいているのだろうと思う。漫画アニメのようなフィクションの作品でも、努力で栄光をつかみ取るスポーツマンのノンフィクションの姿でも、とにかくそういった物語性を通して作られる人々の共有意識が。

 そこで私の目が向くのはやはり「ペット」の存在である。ペットは平和に手足が生えたような生き物だ。可愛がられるために生まれたペットは基本的に殺すことも殺されることもない。出来る限りの苦痛を取り除かれ、快適な温度と環境を与えられ、その多くは野生下に置かれるよりも長く生きる。まるで旧約聖書で表される理想郷のように、天敵同士が同じ屋根の下で穏やかに暮らすこともある。

 ペットの中に残された自然の摂理といったら排泄と死ぬことくらいだろう。心安らぐ香りと温もりは生きている証だが、その裏側に貼り付いた臭さや冷たさに触れた時、人は動揺する。きちんと避妊・去勢をし正しい知識をもって計画的で適切な飼育を実践する真面目で優しい飼い主は概して平和主義者が多いだろうと察するが、ときにその繊細な心は死の重さに耐えられないことがある。また、動物を侮る飼い主はうんち・抜け毛・ニオイの世話に耐えられず、無責任にも安易に手離してしまうことがある。

 日本の現代社会は文字通りの戦争は長らく経験しておらず、そういう意味では太平の世が続いている。治安は良くなり、個々の命が尊ばれるようになった。一方で、その在り方は自然からますます離れたものとなった。暴力や性に関する生々しい表現は遠ざけられ、菜食主義や反出生といった考えが出てきて、結婚や子を持つことに慎重になり出生率は下がった。これは日本に限らず、多くのいわゆる先進国で共通して見られる現象のようだが、平和神話における自然の摂理への拒絶的な一面と、決して無関係ではないだろう。

 平和の体現者であるペット。その多くは次世代を残すことなく安穏とした生涯を終える。神話の原理に基づいて考えてみるなら、ペットは今この瞬間を生きる命としては大切にされる一方で、自然の摂理を否定することによって産まれ生かされるという奇妙な存在なのである。人々は可愛らしくもどこか憐れなペットを大切にしたいと思う。私もそうだ。ただ、その「優しさ」はありのままの生を受け止めるのではなく、目を閉じてうたかたの楽園を夢想しているような状態なのかもしれない。

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