黙ってるのは意見がないんじゃなくて、輪郭のない言葉があふれすぎているだけ
わたしの文章を好きだと言ってくれる人がいる。
恐れ多くもめちゃくちゃにうれしい。国語が得意なわけではなかったし、本も漫画もほとんど皆無レベルで触れてこなかった。
どうしてだろうと思う。言葉にすることにはいまだにハードルがある。でも、やっぱり出したい。そんな葛藤を続けるなかで、コーチングや桜林直子さんと星野概念さんのトークイベントもくもく雑談会などを通して、ちょっと光が見えてきた。気がする。
ちなみにこのnote、出すのが苦手といいつつまぁいろんな考えが駄々漏れてきてそこそこに長い。離脱するなら今だよと諭しつつも読んでほしい気持ちも。
話すにせよ、書くにせよ、世に言葉を出すということが苦手な人、抵抗ある人とか、わたしと同じ感覚を抱いている人もきっと多いんじゃないかな。だらだら書いたけど、言葉にすることは供養なのかもしれないなと感じている話。
思っていることとアウトプットが一致しないもどかしさ
とにかくわたしはできるだけ思考を整理して自分なりに腹落ちさせてから納得するかたちで言葉を紡ぎたい。内側で感じたすべてをもっと丁寧にラベリングしてジャンル分けして大切におさめていたい。すべての出来事や感じたことをなかったことにしたくないんだよな。傲慢だな。
それにしても生きてるだけでぽこぽこ湧いてくるもの多すぎでは?全然収集つかないし、情報処理班がまじで追いついていない。どれもこれも大切な感情で、まだ名付けられていない言葉がたくさんある。
だから誤解しないでほしい。黙っているのは、なにも感じていないのではない。まだ出すに値しない言葉が内側で溢れすぎているのだ。
伝わらないくらいなら黙っていたほうがマシ
ストレングスファインダーでいう頂点の資質が「共感性」のわたし。スポンジ才能とも呼ばれ、非言語情報含め感受性が強すぎて受け取る情報量がかなり多い。声のトーンや話すスピード、表情の些細な変化まで、言葉にしなくても相手の言わんとすることが手にとるように分かる。それぞれのキャラクターを通して世界をみるだけで忙しい。複数人で集まれば場の空気含めて感覚センサーはフル稼働。
会議の場は特に疲れる。あぁこれはいま誰かが発言しなければ、という圧を(勝手に)感じて空気を読んで慌てて言葉にする。そして言葉にしたときに、自分の言いたかったこととニュアンスがちょっと違うんだよなという感覚がのこる。さらに「調和性」という2番目の資質が相まって、議論をうまく着地させるために思ってないところまで他人の意見を譲歩しながら話す。
案の定伝わりきってないし、慌てて補足するも回りくどいし。時には何言ってんだこいつ?という表情をビンビンに察して萎縮する。そして後悔する。めっちゃ引きずる。もうあの場は訪れないのに何度も回想して「あぁ、この表現のほうが適切だったかな〜」とか、「あの人は論理的にきっぱり自分の意見を言えてすごいよな〜」とか。いつまでも内側が騒がしい。もうこれは完全に負のスパイラルである。
言葉にしたときに削ぎ落とされてしまったところにこそ、わたしが伝えたい大切なことがあったはずだというのに。言いたいことを的確に場に出す、そんな高度な瞬発力ないんだよな。
会議に限らず、かつてギクシャクした恋人との会話も、映画の感想も、出してもきっと伝わらないし、まだ何が伝えたいかよくわからない。だから黙ってる。伝わらないくらいなら言わないほうがマシ。わたしだけが分かっていれば傷つかないし。
こうやって内側にあるものを外に出す抵抗が生まれるわたしが出来上がった。めんどくさいから脳みそそのまま展示したい。(雑)
思うと話す、思うと書く、のあいだで起きていること
ここまで書いてみて、あらためて言葉への執着がすごいな。よく言えば、自分のなかで湧きあがっている思いを心底大切に扱いたいんだな、とは思う。感じたものと極力リンクする言葉を見つけたい。どこまでも慎重になるし、語彙が足りなさすぎるし、微妙なニュアンスをあらわす言葉がこの世界に存在しないなと感じるときもある。とにかくドンピシャでいたいのだ。
その点でいうと、心からの距離が近い口で語る方がまだ整合性が高い(気がする)。"書く"となると、心と手の距離が遠くて、指が動くまでの神経回路のなかでいろんな雑念がまざる(気がする)。文章だとじっくり紡げる一方で、視覚的に残ったものをあとから見直したときのこれじゃない感は増大する。"話す"は姿かたちがないからダメージは少ないけど、とにかくごちゃる。
そんな感覚をもちあわせて生きてきたなかで、いま、ちょっとした革命が起きている。心臓から垂直に湧きあがってくる、よくわからない声を加工せずにそのまま聞いてくれる場ができた。コーチングだ。
まだ自分でも輪郭がはっきりしないごちゃごちゃしたものをごちゃごちゃのまま出しても受けとめてもらえる。なんなら好奇心をもって一緒に探究してくれる。あるひとつの問いが琴線に触れて、堰を切ったように溜まっていた思いがどんどん溢れだしてくることも。
そんな場や体験を通して、少しずつ自分の言葉で表現することを許せるようになってきた。なんなら結構アドレナリンでちゃったりして。清々しいし気持ちいい。話したり書いたりするなかで、どんどん思考が整理されていく。noteをかけるようになったのは、自己表現に少しずつ抵抗がなくなってきたからかも。
「わたしって思ったよりおしゃべりだし、自分の話するの好きだな」
言葉を寝かせてから世に出してみる
内側で感じたものを寝かせていると、知らないあいだに言葉が発酵して、あちこちにあった感覚や情報がふとした文脈でつながることがある。熟成されるまえに腐敗しちゃうこともあるけど。「えいや!」で出してみると点と点が線になるように、するすると芋づる式に出てくる。
だからわたしのnoteはだいたい長い。書き出してしまったもんなら、まとまらないし、とまらない。予期せぬところで影響しあって結合されたりする。
芋は芋のまま出せばいいのに、ひと様の目に触れようもんなら、極上のスイートポテトに仕立てて披露するくらいにはかっこよくみせたいプライドも正直ある。作品のように綺麗に整っていなければならない、というような妙な美的思考。整えるうちにやっぱり削ぎ落とされてる気もするから、これはこれで厄介だけど。
でも内側で発酵させつづけるよりも、だらだらと出してみることに意義があるような。言葉だって日の目をみたいと思ってるかも。とか。
言葉にすることは供養である
・・・ね、今まさにこれよ。この状態。芋づる式。関連してどんどんでてくるんだよな。困ったな。笑 すいません。もうちょっと続きます。
先日マイコーチとのセッションで、わたしの中にビー玉のような、まるくてクリアな玉があるイメージが湧いた。その玉は魂のようなものなのかな?外から受けた刺激を繊細に感じとってあらゆる情報や感情をどんどん吸い込んでいく。いまは濃紺のような深~い青で濁っているようにみえた。もうその魂は成熟しきったんだな。ちょっと感受性が鈍くなってきてるしこれ以上入りきらないから、そろそろ体の外に出たい、と叫んでいるように聞こえた。
ひとつひとつ手を合わせて「生まれてきてくれてありがとう」と感謝し、供養するイメージで渦巻くものを手放していく。そんな作業を意識的にしていきたい。
長くまとまったものじゃなくてもいい、きれいに整ってなくてもいい。歌でも詩でもいい。そんな提案をしてくれたコーチ。そうだ、表現方法は自由である。
さいごに
最後にどうしても伝えたいことがある。
わたしが熱狂して書いたパフェの記事をかえでさんが読んで、実際に足を運んでくれた。それだけじゃなくて、こんな感動体験とともにまた素敵な文章となって戻ってきた。胸が高鳴って、うれしいが止まらなかった(語彙が発酵前)。伝えてくれてありがとう。感じてくれてありがとう。
わたしが紡いだ文章がだれかに届き、興味をもってくれたり、心に響くことがあったり。自分のなかで大事にしまっておかなくったって、手放したって消えてなくなるわけじゃないんだな。むしろ想像もしていなかったインパクトをもってわたしのもとに戻ってきてくれる。とんでもないギフトを受けとった気がして心が喜んでる。
出すことは思っているほど怖くない。言葉は循環する。
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ここまで読んでくださりありがとうございます。
マイコーチとのセッション後、秒で爆誕した人生初の詩(?)をここに置いて供養したいと思います。
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