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絶対無理。できるはずがない!!

ゴールデンウイーク。コロナによる外出制限もふんわり、やんわりと緩やかになり。久しぶりに数人の友人たちと飲み会を行った。

いやー旧友というのはいくつになっても一緒にいた時間に自分たちを引き戻してくれる、魔法のような人たちだ。

話の流れで、「私は趣味でブログや小説などの文章を書いている」とうっかりしゃべってしまった。「小説は何か賞とかに出してるの?」とある友人に聞かれ、これもまたよせばいいのに「何度か」と答えちまった。

それが、ヤブヘビ。楽しかった飲み会が一変、友人たちから猛烈な集中砲火を浴びせらる羽目となった。

「絶対無理だよ」
「いくつだと思ってんの?」
「あんなのは才能のある人がするんだよ」
「バカなんだからやめておきなさい」
等々。

これだけの罵声が友人たちの口から切れ目なく放出されるのも私の徳の高さを示すところだが、それにしても、それにつけても酷いではないか。

私だって自分に特別な才能が有って一旗揚げれるような文豪になれるなぞとは、露ほどにも思っていない。

文章を書くのが楽しくて「面白いよ」と言ったまでである。

それだけの言葉に異常に反応する友人たち。

ここでフッと色んなことが頭をよぎった。

「そんなのできない」「そんなことできるわけがない」

この言葉は私が理学療法を長年やって来て患者さんたちから何万回と聞かされ続けてきた言葉である。

人はなぜ「できない」を繰り返すのか。

20年近く理学療法士をやってきて私が思う理学療法の極意は、患者さんに「できると思わせること」である。

しかしこれがなかなかに難しい。

いくら私が、「練習したらできるようになります」と言っても患者さんたちは「できない。できるはずがない」を連呼するばかりです。

患者さんたちが繰り返す、「できない」「できるわけがない」の正体を暴いて、「できる」に変換する技術がとても大切なのです。

そこで今日は、「できない」「できるわけがない」の正体と「できる」に変換する技術についてお話していきたいと思う。

患者さんたちの頭の中にはびこっている「できない」の方程式はいたって単純です。
病気になって何年も経っている患者さんたちは当然理学療法を今まで受けてきた経験があります。
「それでも、治らなかったのだからいまさら何をやっても無駄だ」
「病気になって何年も経つのにリハビリなんて効くはずがない」
といったように経験則からくる「思い込み」が根拠となってる場合がほとんどです。

患者さんのいうところの「治る」という言葉が曲者です。

脳梗塞で右半身まひの患者さんで説明してみましょう。

患者さんの言う「治る」は脳梗塞になる前の状態に戻ること。を指します。「脳梗塞になる前の状態」とは麻痺がなく、それまで動いていた手足が元通り、自由に動くことを指します。

一方、病気の発症から何年も経った患者さんに提供するリハビリテーションは、「できなくなったことをできるようにする」ことを「治る」と表現する。つまり、寝たきりでオムツをはめていた人が一人で立ち上がって歩いてトイレに行って一人で排泄をすることを「治った」というのです。

つまり、動かなくなった手足を動かすのではなく、動きは悪くなっているけど動く筋肉を活性化させたり、できる方法を練習することでできなかったことをできるようにするのである。

しかし、患者さんは病気になる前の状態に戻ることを主眼に置いているので、動かないものが動くようにならないかなぁ。と願う。そして何年も動かないという事実を目の当たりにすると「もうできない」が経験として頭にこびりつく。そして、「できない」を呪文のように繰り返すようになる。

この「できない」が脳裏に発生した時点で人はできることがどんどん枯渇していき、ついには寝たきりになってしまうのです。

たかだか骨一本折れただけの患者さんでも認知症になり寝たきりになっていくメカニズムですね。ひとは「できない」と思った時点で寝たきりに向かっていくのです。

患者さんたちの頭の中で繰り返される「できない」の一言が心に作用して体を動かなくしているのです。

「なんで病気になったんだろう」「なんで麻痺が残ったんだろう」「なんで動かないんだろう」

患者さんたちの「なんで」の先にあるのは必ず転嫁や後悔です。
「あの病院に運ばれたから麻痺が残ったんだ」
「腕の悪い理学療法士が担当になったので体が動かなくなった」
「結婚生活でずっとストレスを抱えていたからこんな病気になったんだ」
「担当医が新人だったから私は寝たきり状態になったんだ」

「あの時すぐに救急車を呼んでおけばこんなことにはなっていなかった」
「もっと食生活に注意しておけば」
「仕事をしすぎたからだ」
「早く離婚しておけばよかった」
等々

どうにもならない過去の「なんで」を探求するがあまりひとは「できないこと」を増やしていくのです。

患者さんは長く障害を抱えたまま生活していると「できない」理由を押し並べるのがとても上手になります。

「長嶋さんや西田敏行さんを見てください。脳卒中になってもまた、テレビに出て頑張ってるじゃないですか。できますよ」

と、鼓舞しようとしても患者さんは

「あの人たちはお金持ちだからリハビリだってたくさんできるし、私たち庶民には到底マネができないのだよ」

と言われる。庶民と言っておられた患者さんの中にはベンツを乗っているような人までもが自分は「庶民だからお金持ちのマネはできない」と言っていた方もおられる。つまりは、お金がないとかあるとかは関係ないのである。「しなくていい理由」を必死に見つけようとしているのである。または、「できない」ことの自己肯定を行っている。

これだけの策を弄してまでも「できない」を肯定したい患者さんたちに「練習したらできるようになりますよ」と言っても患者さんたちのなかなかに重い腰は持ち上がらない。

最後には「俺ができないって言ってんだからできないんだよ!」とお怒りになられる患者さんも沢山います。そういう患者さんは主に「俺流」でやってこられた男性によく見られますね。

「できない」という思い込みはそれほどまでに人の心をむしばむのです。

では、そんな患者さんたちに私たち療法士はどうやって「できる」に変換していくのかということです。

患者さんの「なんで」を「なにをしたら」に変換します。

「なんで手足が動かないんだろう」 

脳卒中の患者さんがよく言われるセリフです。

そこで、脳細胞は不可逆的で一度死んだ細胞は云々。などと生理学的なことを話しても「そんなことはわかっている!」と怒りを買うばかりです。ここでいう「なんで」は決して患者さんが療法士に生理学の授業をして欲しいわけではないのです。

そこで私はよく使う方法は「何をしたら動くようになるか」を話すようにしている。
「リハビリなんかしても治らない」を繰り返す患者さんが「なんで手足が動かないんだろう」とおっしゃられた場合。その患者さんが何を望んでいるのかを吟味して元通りの体を目指しておられるのであれば、
「リハビリテーション治療では、それは無理なので再生医療等の治療方法を医師に相談してみてください」
「動かないものを動かすのはリハビリテーション治療ではなく再生医療です」
とはっきり言う。これも賛否両論あると思うが私は理学療法でできることとできないことをちゃんと患者さんに伝えるようにしている。「患者さんをがっかりさせるだけでいいやり方とは言えない」とおっしゃる方もおられるだろうがここで大事なのは目的と手段あっていないことを自覚してもらうことだと思っている。

「何をしたら」を患者さんと一緒に模索していく役割が療法士にはあると思っている。

動かないものを動くかもしれないと嘯いてリハビリを続けることは、言い換えれば「取れてしまった足は願えばいつかは生えてきます」と言っているようなものだ。私にはできない。建設的ではないと思うからだ。

もし、動くものを動かないと思い込んでいる患者さんの場合は、より分かりやすい形で動くように理学療法を行う。

リハビリテーション治療でできることとできないことの区別がついておられない患者さんたちには「どうやったら」を教えさせていただく。

「それじゃやっぱりリハビリなんてやっても治らないじゃないか!」

と、ご立腹される方もおられるでしょうがそりゃそうである。目的と手段が違うのだから。交通事故で手が取れた患者さんが「正露丸くれたら手が生えてきて治るから正露丸よこせ」と言ったとしたら、「それではちょっと治らないし、手は生えてこないので違う治療法がいいのでは?」と教えてあげる方が親切だと私は思っている。

リハビリは決して魔法ではない。リハビリを魔法のように宣伝する人たちも一部おられるがそれはあくまでも「個人の感想です」ってやつだ。

「なんで」を「なにをしたら」に変換することで患者さんの理解を求める。

生活期のリハビリテーション治療において「治せる」ものは生活行為そのものしかないと言ってもいいだろう。痛みを取るのも動きにくい関節を動かしやすくするのも脳トレをするのもすべては生活行為の向上が目的なのだから。

すべては「できない」を「できるようにする」技術なのです。

先ほどの例でいうと
「再生医療では動かない手足が動く可能性がある。お医者さんに相談してね」

ということになる。

一発目でかなりコアな例を挙げてしまったので難しくなったが多くの場合は

「トイレがいけなくて困っている」
「外出できるようになりたい」
「もっとしゃべれるようになりたい」
「ご飯が食べられるようになりたい」

と言ったご希望があってリハビリテーション治療が開始される。

その場合は「なにをしたらできるようになる」を一個づつ提示してやれることを一つづつ増やしていく。そうすることで「できない」という思い込みが少しづつ外れていき「できない」が「できる」に変換される。

具体的な「できる」を提示しないと患者さんからの信用は得られないのである。

「できない」の呪縛から患者さんを開放するには理学療法士がいかに「できる」を実感させることができるかにかかっている。

とはいえ、「できない」の思い込みを外して「できる」に変えるのは相当に難しい。

思考を変更させる方法として「具体的に何をすればどうなる」を提示していくことが大切になってくる。

「そうか、歩けるようになりたいのか。練習すれば歩けるようになるからガンバレ」

とだけ言われた患者さんはどうしていいのかわかりません。自分流にやってもできなかったから療法士の目の前にいるのです。

具体的に何をするのかを伝える。事が大切です。また、
「四頭筋のトレーニングはあれとこれとそれとやって」
「ハムストリングはこれとそれ」
「体幹筋トレーニングはこれとそれと」
「バランス練習ではこれとあれとそれと」
なぞと練習メニューを書き連ねたところで患者さんはしやすい自分にとって楽なメニューしかほとんどの場合はしてくれない。もしくは、まったくやってもらえない。

「面倒くさい」

というデメリットに誰も打ち勝つことができない。

文字の羅列が多くなればなるほどに「面倒くさい」が積乱雲のごとくムクムクと湧き上がるものなのです。

患者さんが用いる「面倒くさい」に打ち勝つ魔法の呪文それが「どうせできない」です。

「どうせできない」のだからやる必要がない。と変換してしまうのです。

イギリスの哲学者ジョン・ロックさんは

「善と悪,そして報酬と罰は,合理的な生物にとっての唯一の動機である。これらは,すべての人間にとって生きていくうえでの刺激となり,または手綱となっていく」としている。

つまり、患者さんの「できない」は「面倒くさいことをしなくていい」という報酬得るための手段であると考えられる。

では、理学療法という「面倒くさい」ことこの上ない治療法を継続するには、「具体的な報酬」が必要なのである。

よく、勉強しない子に親が用いる方法として「脅し」がある。
「勉強しないとろくな大人にしかなれない」「勉強できないといい大学に入れずいい会社にも入れず、社会の底辺で生きていくことになるぞ~」

なぞというものである。これは医療現場でもしょっちゅう見かける。

「痩せないと、脳卒中になりますよ。糖尿病になりますよ。心臓病になりますよ」
「お酒を控えないと肝臓の病気なりますよ。怖いですよ~」
「タバコ辞めないと肺がんになりますよ~」

的なやつだ。

しかし、これはほとんど効果がない。

「リハビリちゃんとやらないと寝たきりになりますよ~」

なんて言って患者さんを脅しても全く聞く耳を持ってもらえない。

これは、楽観バイアスがばっちりかかっていて、人は自分にとって都合のいい解釈しかしない。いくら医療従事者(他人)が「病気怖いぞ~」と言っても、自分自身の経験の中で困ったことがなければ、自分には起きない。自分は大丈夫というバイアスがかかる。だから、「脅し」は効果がない。

「あなた太っているから成人病のリスクが高くなるので痩せましょう。痩せ方はね、カロリー控えて、たくさん運動してください」

なんて言ったら、「うるさいわい!わかっとるわい!」と逆に怒られてしまうでしょう。

「面倒くさいこと」はしてもらえない。「脅し」は通用しない。

合理的にいくら説明しても患者さんは理解してもらえない。やろうとしない。今の現状に甘んじてしまう。困っているのは、家族や施設、病院スタッフのみである。本人はあきらめることで「楽できる」という報酬をもうすでに手に入れているのだから、動くはずがない。

ではどうするのか。

うわーできたできたー。とお祭り騒ぎで患者さんを褒めちぎる。これにかぎる。

人は自分のためには努力できない。娘や息子のため、孫のためと言った人のためにしか努力できない。それでも「面倒くさい」には勝てない。

となれば、褒めちぎって褒めちぎって情動に訴えかけ、「できる」という報酬、「褒めてもらえる」という報酬を怒涛のように浴びせて、「できない」を撃退するしか方法がないのである。

では、話を戻すが友人たちが私に「どうせできない」「絶対無理だ」と否定的なセリフをどうして放つのかを考えてみよう。

ここでいう「無理だ」は先ほどまで論じてきた患者さんの「できない」と大きく違う。それは患者さんの場合は自分自身に対する自己否定的な「できない」である。ここで言う「できない」は他者に対する否定の「できない」である。

ここで言うところの「できない」を「できる」に変える方法はあるのだろうか?そもそも「できない」を他者に対して繰り返す人たちの心理状況は何なのかを分析していきたいと思う。

例えば高校生の女の子が両親に「私はアメリカに行ってビックになる!」と果敢にも宣言したとしよう。

ビッグになるまえにビックリされてしまう展開だ。

親御さんは、ダメだと否定したとします。この時の親御さんの気持ちとして考えられることをピックアップしてみよう。

思考① 最悪想定パターン

「アメリカのような銃社会で暮らしたら流れ弾でもあたって死んじゃうかも」
「アメリカのナイスガイにコロッと騙されて、孕まされるかも」

とまぁ、最悪の事態を想定して反対しているのかもしれません。

思考② 欠点羅列パターン
「お前は昔からルーズなところがあるからアメリカなんかに行ってもどうせだめだ」
「お前は英語の成績が中学校からずっと駄目だったんだからどうせ向こうに行ってもだめだ」

「お前は昔から3日坊主で習い事でもなんでもすぐにやめる子供だったから、アメリカ言ってもすぐに逃げ出して帰ってくるのだから、最初からやめておいた方が賢明だ」

とまぁ、今までの行動を変換してダメになるだろう理由を羅列するパターン。

思考③ 他者比較パターン
「イチロウは野球を究めたからアメリカに行ったんだぞ。お前には何があるんだ」
「野口英雄は、天才だったから人からお金出してもらって海外に行ったんだぞ。凡人以下のお前が行ってどうする」
「草間彌生さんだって絵の才能があったから海外で活躍できたんだぞ、お前はなんらかしかの天才ですか?」

的な他人と比較して貶めるパターンですね。

思考④ 俺スゲーパターン
「父親である俺の方がすげーんだから、お前には無理」
「母親の私がそんなことできないのだから、お前ができるわけがない」
「俺以下の人間がなに偉そうな夢見ちゃってんの」

的な下の人間を作りたがるパターン。士農工商やカースト的なやつですね。

思考① 最悪想定パターン
思考② 欠点羅列パターン
思考③ 他者比較パターン
思考④ 俺スゲーパターン

①~④をもとに友人たちが私に否定的集中砲火を浴びせた原因を探ってみよう。

① 友人たちは私が小説家やブロガーとして生きていこうとしていると勘違いして、人生を棒に振ってしまうことを心配してくれている。

② 昔からちゃらんぽらんだった人間がなにか趣味なんか持つより、もっとお仕事がんばったら?と心配してくれている。

③ スゴイ文豪がたくさんいるのだから、そんな文字を書くなんてことはしないで、お仕事に集中したらと心配してくれている。

④ バカなんだからいろいろ手を出さずに一生懸命仕事だけしておいた方がいいんじゃね?と心配してくれている。

も、もしかして、私がブログや小説を書かなくなったときに「あいつらのせいで私は文章を書くことをやめたのだ」と言い訳できるように愛の手を差し伸べてくれていたのか。愛、愛なのか!!

なんて、いい奴らだ。

もう二度と文章を書いていることはヤツらには言わないでおこう。そうしよう。(笑)




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