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#02 文禄・慶長の朝鮮出兵

日本では「文禄・慶長の朝鮮出兵」朝鮮半島では「壬申・丁酉の倭乱」と呼ばれるこの歴史的大事件は、日本の陶磁史、有田焼の誕生になくてはならない史実です。別名を『やきもの戦争』と呼ばれることもあり、この当時の大陸文化を日本に取り込む 大きなきっかけとなったといわれています。逆に朝鮮半島では、陶磁器だけでなく書・織物・蘭学など多くの専門家が半島から日本へと流出したといわれています。

(余談)その当時 朝鮮半島での白磁は藩窯(公的な窯元)が作る「青花」と言う華やかな絵柄が主流でした。しかし、壬申・丁酉の倭乱をきっかけにいなくなってしまった職人たちの代わりはおらず、儒教思想も相まって「余白の美」「簡素の美」といわれるシンプルなデザインの李朝白磁 が定着していくことになります。

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李朝:前期「青花」/ 後期:「李朝白磁」

● 初代、日本へ

この当時の様子を 六代目惣太夫が書き残した「金ヶ江家文書 乍恐某先祖之由緒を以御訴訟申上口上候覚」を元にご紹介いたします。
 
鍋島直茂が朝鮮半島入りした際 事前に予定されていた戦地に向かう途中、山で道に迷ったそうです。直茂が困っていた矢先、少し先にひとつの小さな小屋がありました。そこに3人の男性がおり道案内を依頼、戦地へと無事たどり着くことが出来たそうです。その後、帰路に小さな小屋へ立ち寄り、道案内を依頼した3人を連れ帰ることにしました。3人のうち2人は農業、1人は窯業従事者 その1人が「初代李参平」と言われています。

1597年豊臣秀吉の死去により、1598年鍋島一行は朝鮮半島から日本へ戻ってきました。佐賀城から鍋島家老中であった多久家へ身を寄せます。


では、また次回へ。


※追伸※この文章は「金ヶ江家文書」に沿って書いています。


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