大衆運動は、人々の創造性をしぼませてしまう

現代においてほかの運動の支持者を引き抜こうとする大衆運動は、対立する大衆運動の熱心な支持者を、自分たちの運動の支持者に改宗する可能性が高い人々と考えているものである。ヒトラーはドイツ共産党の党員を、国民社会主義党(ナチス)の党員候補と考えていた。「プチブルの社会民主党員や労働組合のボスたちが国民社会主義者になることはないだろうが、共産党員であればいつでも国民社会主義者になるだろう」と。ナチスのエルンスト・レーム大尉は、四週間あれば、熱狂的な共産主義者を熱烈な国民社会主義者に変える事ができる、と誇らしげに語っていたものである。他方で〔ソ連の革命家〕カール・ラデックは、ナチスの突撃隊員(SA)を将来の共産党員の予備員と考えていた。
――――エリック・ホッファー『大衆運動 新訳版』(紀伊國屋書店)P.36


先の、エリック・ホッファーの『大衆運動』の内容から見るに、「ほかの運動の支持者を引き抜こうとする大衆運動」は、その「ほかの運動の支持者」を、自身の大衆運動の「見込み客」と見なすらしい。

この、エリック・ホッファーの『大衆運動』からの引用を見て、「いいやつ見つけた」の歌詞を連想したのは私だけだろうか?

1.いたずらイタチが 裏の畑で
ニワトリを 見つけた
ピョン こいつぁ いいぞ
いいやつ 見つけた
晩御飯に しちゃえ
スープも素敵
ピョン こいつぁ いいぞ

2. おしゃれのニワトリ 裏の畑で
イタチの子 見つけた
ピョン こいつぁ いいぞ
いいやつ 見つけた
えりまきに しちゃえ
それとも チョッキだ
ピョン こいつぁ いいぞ

3. イタチとニワトリ 裏の畑で
顔と顔 見合わせ
ピョン こいつぁ いいぞ
いいやつ 見つけた
淋しかった とこだ
肩くんで 踊ろう
ピョン こいつぁ いいぞ
―――――――――――――――――――――「いいやつ見つけた」の歌詞

歌詞の内容としては、歌詞の1番が、ニワトリを見つけたイタチが、晩御飯にしようと考える内容になっており、2番は、イタチを見つけたニワトリが、イタチの毛皮を利用しようと考える内容に、そして、最後の3番で、イタチとニワトリの両者とも、お互いを仲間だと考え、仲良くする、という内容となっている。ここに滑稽さがある。

この「童謡」と、現実の大衆運動との違いは、「童謡」と違い、「現実の大衆運動」は、「歌詞の2番で止まっている」ところにあると思う。

歌詞の3番の展開、つまり、最終的に「お互いを仲間だと考え、仲良くしてしまう」という展開が見えてこない。

よく、喜劇映画では、敵同士が何の深刻な前触れもなく、いきなり「お互いを仲間だと考え、仲良くしてしまう」という超展開があったりするが、「現実の大衆運動」には、それが無い。

そう考えると、「大衆運動」とは、全くもって「コメディ化しづらい」ものなのだと思う。

そう考えていくと、エリック・ホッファーが『大衆運動』で書いているように、大衆運動の時期においては、創造的な活動―――芸術―――や、創造的な精神がが弱り、しぼんでしまうのも、全くもって不思議ではないだろう。

大衆運動が終了したあとに起こる文化的なルネサンスの原因は、そうした大衆運動にそなわる理想主義や情熱にあるわけではなく、むしろ集団的な規律が急激に緩められたこと、そして盲目的な信仰と運動の参加者の自己への軽蔑と〈現在〉への軽蔑が生み出す窒息するような雰囲気から、個人が解放されたことによるものである。場合によっては、聖なる大義が失われたか見捨てられたために生じた空虚な空間を満たそうとする渇望が、創造的な衝動を生み出すこともある。
―エリック・ホッファー『大衆運動 新訳版』(紀伊國屋書店)P.253-254

(前略)ナポレオンとヒトラーは、彼らの英雄時代に生み出された文学作品と芸術作品のふがいなさを咎めながら、その時代の力強い行為にふさわしい傑作があるのではないかと騒ぎ立てたものだった。彼らは、活動的な運動の雰囲気というものが創造的な精神を損ね、窒息させるものであることを知らなかったのである。
―――エリック・ホッファー『大衆運動 新訳版』(紀伊國屋書店)P.254

今回はここまで。

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