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地獄の夏合宿とうるさい比喩【4】

来たる午後の練習、待ち受けるのは希望か、絶望か

(※このエッセイは第4話です。第1話から読むことをおすすめします)

午後は専門としている競技種目別に分かれて、小さなグループで練習をすることとなった。走り幅跳びを専門としている僕とAは、同じく走り幅跳びに命をかけてきている西方の部員たちとストレッチに励んでいた。同じ専門でも、おそらく草野球とメジャーリーグ、ゲートボールとマスターズゴルフくらいの差はあるだろう。

遠くを見ると、西方の顧問は短距離走と中距離走の一団の指導に手一杯な様子で、僕はそっと胸を撫で下ろしたのだった。午前中にあれだけ走ってもなお走り続ける彼らを見ると、もはやそのたくましさを感じる以前に、変態すぎて言葉もない。海の中を泳ぎ続けないと死んでしまうマグロでも、思わず引くくらいには走り続けている。

そんな変態たちを横目に、僕ら幅跳び一団は砂場をスコップで掘り返していた。砂場は着地に使うため、柔らかくしないとその衝撃を吸収してくれないのだ。仮に全く掘り返さずに着地した場合、尻に軽トラが追突するくらいの衝撃を受け、交通警察による事故処理が必要になる。

「ほんなら、始めましょか〜」
西方の女子部員が言った。彼女は跳躍種目の中ではリーダーを任されているらしかった。テキパキと下級生に指示を出している。ここではB子さんとしておこう。
「G高校の方、普段どんな練習されてはるんですか?」
すかさずAがそれに答えた。鼻の下が伸びきっている。練習の話だけでなく、そのうち電話番号と住所まで聞き出しそうな勢いだ。大きな瞳に、直線的な鼻筋、引き締まった口元。そう、B子さんは誰が見ても京美人そのものであった。どのくらい美人かと言うと、他人の唐揚げに勝手にレモン汁をかけても怒られないレベルである。

Aがひとしきり普段の練習方法を語ると、B子さんは今日の練習メニューを説明し始めた。どうやら西方の跳躍練習は鉄棒とウエイトリフティングを取り入れているようだ。Aは彼女の説明が終わってもなお、相槌を繰り返している。B子さんの顔面に釘付けのAをひっぱたくと、やっと正気に戻り、頷きをやめた。

AはB子さんにかっこいいところを見せるため、シュウマイが蒸せそうなくらいの鼻息を振り撒いていた。しかし、B子さんがひょいと掴んだ高い鉄棒には手が届かなかったし、ウエイトリフティングの重りはB子さんの半分だし、もう脈なしすぎて心電図がほぼ地平線である。非力な小動物系男子がモテるということがまれにあるが、彼は紛れもなくミジンコやプランクトンレベルの小動物であった。釜揚げシラスの中に入った小エビの方がまだかっこいい。

いざ砂場へ跳ぶとなると、諦めないのがAであった。練習はグダグダだったが、競技力となると別である。AはB子さんの方をチラチラと見ながら助走をつけ、力強く踏み切り、豪快に着地した。少なくとも小エビは超えられたようだ。Aは非力ではあるが、脚の持つバネの力は強い。飛距離は西方の男子部員に劣っていない。まだB子さんとの成就の可能性は捨てたものではないかもしれない。僕はだんだんとAを応援するようになっていた。
「体細いのによう跳ぶわぁ。やっぱ跳躍はバネやね、バネ」
そんなB子さんのセリフにAは大興奮である。今からティファニーに行って、財布が爆発する値段の婚約指輪を買ってきてもおかしくはない。

「あと2本くらい跳んだら終わりにしよか。もうすぐ日も落ちて来はるし」
B子さんは皆に向かってそう声をかけた。AがB子さんにアピールできるのもあと2回きりということだ。Aはいつもよりも長めに助走の距離を取った。勢いよく走り出す。Aの顔は輝きに満ちている。

しかし、慣れない助走距離で幅跳びなど出来る訳がない。踏み切り板を踏んだのは、左足であり、Aの利き足とは逆だった。Aは、濡れたちり紙で折った紙飛行機のような低空飛行を披露し、そのまま顔面から砂場に突っ込んでいった。僕は急いで砂場に駆け寄った。土煙の中にAの姿が浮かび上がる。

その時のAの顔は、手持ち花火で遊んだ後の、消火用の水バケツの中身くらい黒く汚かった。B子の突き抜けた笑い声が背後で響く。それは関東人が京風黒ゴマ団子と化した瞬間であると同時に、僕たちのケツを守ってくれるはずの砂場が、Aの淡い恋心を完膚なきまでに打ちのめした瞬間であった。

合宿1日目の練習はこのようにして幕を閉じた。午前の肉体的苦痛と午後の精神的苦痛をもろに食らったAは、損害賠償を請求できるくらいには疲弊していた。
「お友達、大丈夫そうやろか?慣れない練習させたせいかもしらん。悪いことしてもうたなぁ」
Aが一足先に宿泊施設に帰った後、僕はそうB子さんに声をかけられた。その顔は本気でAの身を案じているようだった。京美人は思いやりも欠かさないらしい。やはり、コンタクトレンズのケースくらいしかないAの器に見合うような女性ではない。ズッコケて正解だった。

練習を終えたG高校陸上部一堂は、汗だくのまま夕食を迎えるわけにもいかず、先に風呂に入ることになった。現在時刻は17時50分。夕食は19時からだった。後輩を先に風呂に入らせた後、最後に自分たちの番がやってきた。生後6ヶ月の赤ちゃんの泣き声くらい激しい筋肉痛と闘いながら、脱衣所にて汗だくのシャツを脱ぎ去ると、同学年の部員5人がいる風呂場へと突入した。

「まだ1日目だぜ、信じらんねぇよ」
体を流しているとAのぼやきが聞こえてくる。会話がだんだんと横道に逸れ、美少女B子さんについての話題になるのは自然な流れだった。B子さんがいかに美人であるかを語る猿1匹と、それを熱心に聞く猿4匹、地球上で1番進化していない人類という生き物がそこにいた。半ば呆れながら話を聞き流し、長湯が苦手なためすぐに風呂から上がった。

脱衣所の時計を見ると18時55分であった。疲れから時間に対する認識が緩まっていた。自分としたことが、夕食まであと5分しかない。
「おい、お前ら!早く出ろ!時間やべぇぞ!」
風呂場から帰ってくるのは猿の歓声だけだった。話が盛り上がりすぎているようだ。とにかく早く服を着なくてはならない。風呂から出たばかりなのに冷や汗が落ちる。顧問の鬼の形相が脳裏に浮かぶ。
「おい、早く出......」
その時、僕の耳は確かに顧問の怒号を聞いた。脱衣所から出て右の廊下の突き当たりにある大部屋からだ。夕食の時間になっても全員揃わないことを怒っているに違いない。

僕は廊下を覗いた。そこには誰もいなかったが、このまま大部屋に向かい、そこから出てきた顧問と鉢合わせれば万事休すだ。僕は目の前の廊下を左に進み、角を折れて振り返り、廊下の様子をうかがった。

すぐに、大部屋のドアから顧問が出てきた。レモンと唐辛子とワサビを同時に食べたような表情をしている。脱衣所までツカツカと歩いてくると、すぐに中に入った。数秒後、『3匹の子豚』の末っ子が作ったレンガの家でも吹き飛ぶんじゃないかというくらいの怒号が鳴り響いた。子豚の兄弟が全員狼に食べられる、童話史上最大のバッドエンドである。子供泣くぞ。

僕は脱衣所を覗き、顧問が風呂場に向かって怒りの波動砲を撃ち続けていることを確認したのち、そそくさと大部屋に飛び込んだのだった。宇宙戦艦ヤマトVS猿5匹の戦いの決着は明らかだった。

切り干し大根のようになった5人が席に着くと、やっと夕食が始まった。その日の夕食は、お葬式でとり行う精進落としよりも厳かな食事となった。世界には、心臓の鼓動がうるさく感じられるほどの無音が存在することを、僕はその時初めて知った。地球の裏側、ブラジルで開催されているリオのカーニバルが聞こえてきそうだった。

食事を終えてからは何もやる気が起きず、消灯時刻になる前に布団に入った。それは皆同じようで、すでに眠りこけている部員が何名かいる。目を閉じると、すぐに睡魔はやってきた。

僕の眠りを打ち破ったのは、Aの歯ぎしりの爆音だった。果たして、人間の持つ器官が出せる音なのか、怒りを飛び越えて知的好奇心を刺激される音なのだった。天然記念物である鳥の鳴き声で、とても価値のあるものなんですよー、と言われない限り、僕はAを抹殺してしまうだろう。それくらい不快だった。

僕はAの肩を揺すって歯ぎしりを一時的に止め、また眠りについたのだった。

......次回は2日目の練習編です。ご期待ください。

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