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地獄の夏合宿とうるさい比喩【2】

またいでしまった地獄の正門、灼熱の京都でついに練習が始まる

(※このエッセイは第2話です。第1話から読むことをおすすめします)

高校の敷地内に足を踏み入れてからわずか2分後、僕はスパイクシューズと水筒を持ってグラウンドに立っていた。

その2分の間に僕は、3日分の衣類の入ったバッグを宿泊施設の床に叩きつけ、栄養補給用のゼリー飲料を、飛行機のトイレのように「ジュコッッ」と飲み干していた。バッグの中身が卵白と砂糖ならその衝撃で確実にメレンゲが生成されただろうし、ゼリーを吸引する様子を電気屋の店員に見られようものなら新型ダイソン掃除機として売り場に並べられていただろう。

グラウンドには僕ら神奈川のG高校の40人と京都のR高校の50人、合わせて90人の陸上競技部員が集っていた。東と西に分かれ、陸上というよりは相撲である。東方の顧問、太田胃散ノ里は相変わらず見るものを下痢にさせるような神経質な視線を僕たちに向けている。メデューサは見たものを石にすると言うから、顧問のあだ名はブリュリューサとしよう。

西方の顧問が現れたのはそれからすぐのことだった。かなり焼いた肌に細い体つき、年齢は50を少し過ぎたあたりだろう。我ら湘南人より湘南人らしい見た目だ。
「ほな、やるか」
挨拶もほとんどなく、僕たちはすぐに走れる恰好になるよう命じられた。

皆がジャージを脱ぎ、薄着になる中、僕らを案内した炒飯男は顧問から小声で何やら指示を受けていた。どうやら炒飯男は部長のようだ。話は練習メニューについてだろう。彼らの頭の中にある地獄のメニューのことを思うと、このままシャツまで全部脱いで陸上部を辞め、グラビアアイドルとして生計を立てたくなる。

「ウォーミングアップいくんで、2列で並んでください」
炒飯男の張り上げる声によって、僕たちはグラウンドに整列した。すぐに先頭が走り始める。白線で引かれた300mトラックの中をぐるぐると回る僕らは京都の山手線だった。一体何回新宿に戻ってくればいいのか、テキーラを5000ガロンくらい飲まないとこんな乗り過ごし方はしないだろう。僕らは15分近く走らされた。

長距離走は苦手だ。短距離走を専門としている僕は普通に女子に負けたりする。時代が違えば去勢もあり得る。なんとかチョン切られず、男の子のままアップを終えた僕は、その時点でもう息が上がり、汗だくだった。

ストレッチを挟んだ次のメニューは「流し」と呼ばれるものだった。流しとは全力の70%くらいの速度で50メートルほどを走ることを指す。温まった筋肉にさらなる刺激を与えるためだ。

通常、流しは3本から5本やるのが適切な回数だ。しかし、ここで事件が起きた。5本を走り終え、そろそろ違う練習に入るのかと思っていた私はまた流しの列に並ばされたのだ。

6本、7本、8本、9本......

うん、終わらない☆ 全然終わらない☆

流しの回数が天文学的な数字に近づくにつれ、僕の足は悲鳴を上げ始めた。全力の半分で走るのが精一杯になり、僕は一緒に走っていたAとともに、ブリュリューサに怒号を浴びせられた。

かのアインシュタインやニュートンでも目が回るほどの回数を走らされた僕たちは、やっと流しから解放され、今度はミニハードルと呼ばれる高さ15センチほどのハードルを使った、リズム運動を行うこととなった。この練習の目的は走る際の足の使い方などの技術面の強化にあり、体力的なキツさはあまりない。

先ほどの流しよりかは気楽に練習をこなしていると、西方の顧問が近くにあった水道のホースをいじり始めた。水を出したかと思うと、炒飯男がその水の落ちる先に近づいていった。顧問が指先に力を込めると、勢いよく放たれた水が炒飯男の顔を濡らした。
「ありがとうございます!」
顧問は頷いた。
「今日は暑いなぁ」
異様な光景だった。

西方の部員たちは部長に続き、水を浴びに行った。ありがとうございます!と言ってはまたミニハードルの方に戻ってくる。東方の僕たちは同調圧力から水浴びの列に並んだ。日本人万歳。顔の全部の皮膚が取れて中からターミネーターの銀色のボディが現れるのではないかというくらいの水圧にさらされ、無心で感謝を叫ぶ一連の動作は、警察に見つかれば新興宗教としてお墨付きをもらえそうだった。お布施を全部10円玉にして、気がすむまで顧問の顔にぶん投げてやりたい。 

京都は正午に近づくにつれ、その暑さを本格化させていった。しまいには水に打たれることを快感とさえ思うようになった。知性と自律心を養うはずの高等学校の敷地内で、マゾヒズム集団が形成された感動的瞬間であった。

圧倒的なドMのポテンシャルを発揮し、恍惚とした表情さえ浮かべていた僕を現実に引き戻したのは、水筒の横に置かれたスパイクの姿だった。まだ練習は本番にすら入っていない。その事実は、奮発して買った高級バッグとまったく同じ商品がデパートの残り物コーナーにて半額で叩き売られている光景を目の当たりにした主婦の後ろ姿くらい悲惨だった。

「G高校の方、次、走り込みに入るんで、スパイク履いてきてくださぁい。トイレいきたい人は今のうちに済ませといてくださぁい」

ほぼ死刑宣告のそんなセリフを聞きながら、僕はトイレへと急いだ。著名な作家である村上龍さんには額が割れるくらいの土下座をしたいが、その時僕からは、限りなく透明に近くないイエローが放出された。ゴッホのひまわりに使われている絵の具を全部混ぜたような色だった。芸術とは、実に奥が深い。深すぎる。

僕は水筒を逆さにして飲み、スパイクを履き、グラウンドへと駆けていった。腹の中では胃酸とポカリスエットの特製カクテルが完成している。待ち受ける練習のキツさによっては、僕はそのカクテルの味を知ることになる。先が思いやられて仕方がない。

......次回も練習編です。本物の地獄はここから、ご期待ください。

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