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地獄の夏合宿とうるさい比喩【3】

ついに地獄の時、午前の練習に終わりはあるのか

(※このエッセイは第3話です。第1話から読むことをおすすめします)

西方の顧問に何度濡らされたか分からないシャツは、京都の炎天下を前になす術もなく乾ききっていた。真夏の京都における水分というものは、まさにドラゴンボールの世界で生き延びようとしているちびまる子ちゃんだった。あまりにも無力すぎて、あたしゃ涙がでるよ。トホホ。

スパイクを履いた僕とAは、これから待ち受ける練習を前に震えていた。十数年ぶりのおもらしが再来しそうだ。
「100いきまーす」
炒飯男の号令がかかった。100mを走らされるようだ。要求されるスピードは全力の85%から90%である。ここまでの練習をくぐり抜け、足腰がほぼ友蔵の僕たちにはかなりこたえる。オラに元気を分けてくれ。

トイレ休憩を挟んだからか、最初の1本目はなかなかの速度が出た。案外いけるかもと思ったのも束の間、100mを4本目にしてもう死にそうだった。バイオハザードに出てくるゾンビの方がまだ元気だった。それを10本終えると、休憩に入っていいと言われた。そこまでは天使のような言葉だが、次は200mをやります、という最後の一言は万死に値した。フランス革命の血が騒ぐ。パンが無ければ200mを走ればいいじゃない。今すぐギロチンを持ってきてほしい。

この高校の練習はとにかく走らされる回数が多すぎる。どのくらい多いかというと、結婚後に帰省した実家で、おふくろから貰うミカンや干し柿くらい多かった。200mを3本やらされた僕の脚はもう限界にきていた。西方の部員たちはこの練習スタイルに慣れているためぐんぐん抜かされる。その時の僕の心境は鈴鹿サーキットにてポルシェとレースをすることになったミドリガメのそれと大差ないと思われる。

とにかくケツが割れそうな僕の横で、Aは背中を地面に預け、浅い息を繰り返していた。
「やべぇ、きもちわりぃ......」
Aは見るからに辛そうだった。最後に300mを1本走って午前の練習を終わりにすることが告げられている。皆が休憩を終え、300mのスタートラインに向かう中、Aがえずき始めた。
「おい、大丈夫か」
僕は残り少ないエネルギーを振り絞って、そうAに声をかけた。その途端、Aがとてつもない勢いで身を起こした。頬を膨らませ、左右を見回している。Aが駆け出し、視界から消えたかと思うと、次の瞬間には大音量の嗚咽が聞こえてきた。

僕はAを追いかけた。Aは近くの水道の排水溝に向かって嘔吐しているのだった。僕は背中をさすってやった。
「朝に食った揚げ物の弁当のせいかも......」
Aは一通り吐き出し終えると、そう呟いた。たしかにそうかも知れない。この時ばかりは、普段、食に厳しい顧問が正しいと思った。 

「午前はもう休ませてもらえ、俺が顧問に言っておくから」
僕の声かけにAは感謝し、地面に再び倒れると呟いた。
「俺、合宿が終わったら絶対美味いもん食いたい」
あ、これ死ぬやつだ。志なかばで息絶える戦士。家族写真が入ったペンダントなど渡されようものならもう確定である。

牛乳の中で2時間放置したコーンフレークくらいくたくたになったAを置いて、僕は300mのスタートラインに立った。Aの分まで、僕は頑張らなくてはならない。そしてAの息子と妻に言うのだ、Aは最期まであなた方を愛していました、と。僕は奥歯を噛み締め、スタートを切った。絶対に負けられない。絶対に1位でゴールしてやる。それがAの意思を継ぐというこ

全然抜かされた。なんならビリだった。高速道路に迷い込んだ三輪車みたいだった。戦闘機と蚊、駆逐艦とアメンボが競い合うレースよりも見応えがなかっただろう。

走り終えた僕は地面に倒れ込み、3分ほど動かなかった。僕の体に比べ、トラックに轢かれたカエルの方がまだ蘇生の可能性がありそうだったが、Aは僕に近づき、懸命に立たせてくれた。受け取ったスポーツドリンクをがぶ飲みし、2人で肩を組みながら、グラウンドを後にした。

現在時刻は13時。午後の練習は14時からだと言う。宿泊施設の中に入り、汗だくの服を着替えたのちに大部屋に行くと、すでにそこには昼食が並べられていた。主に野菜が中心のそのメニューは、インドの修行僧でももっと良いものを食べていそうだった。やはりうちの顧問の食の指導はおかしい。Aが吐いていた時の前言は撤回しようと思う。

料理の中で最も栄養が補えそうなのがニラの卵とじという始末だ。これだけの食事で練習に挑めば、人生が閉じてしまいかねない。昼食を終えた僕はこっそりとカロリーメイトを腹に詰め込んだのだった。

午後の練習はもうすぐ始まる。暗澹たる気持ちで、僕は宿泊施設から外に出た。日差しは、まだまだ弱まることを知らない。

......次回は午後の練習&就寝編です。ご期待ください。

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