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閉店後のバーで

最後にボールを手にしたのは、いつのことだったろう。

アキラはロックグラスを磨きながら、そんなことを考えていた。

今朝のスポーツ紙の記事が脳裏にちらつく。昔のことはできるだけ思い出さないようにしていたが、今回ばかりは無理だった。

バスケットボールのプロリーグで、神谷ハルトが得点王と年間MVPを達成した。

「アキラ、俺ら絶対プロになろうな。約束だぞ」

記憶の中のハルトはユニフォームを着ていた。インターハイの閉会式、表彰台の上でハルトが言ったのだった。

脳裏に浮かんだその瑞々しい表情が消えていくと、目の前には酔いつぶれた客の姿があった。カウンターに突っ伏している。

「お客さん、寝ないでください。もうすぐ店閉めますよ」

五十代くらいのその男は、むくっと起き上がると、グラスに残されていたスコッチを飲み干した。半開きになった目をこちらに向けてくる。

「閉店後に客に付き合うってのが、一流のバーテンの腕の見せ所じゃないのかい」

「すいませんね、一流じゃなくて」

「マスターなら一時間、いや二時間は開けといてくれるぜ」

「あいにく、マスターは出かけてますから。今夜、ここは俺の店です。さあ、お支払方法はいかがいたします?」

相手が深酒をしていることもあって、アキラは適当に文句を受け流し、男を店から追い出した。

バスケ界のスターと、新宿の見習いバーテンダー。アキラは客が食い散らかしていったサラダを片付けながら、現実を上手く飲み込めないでいた。

怪我をして分かったことは、自分にはバスケ以外に何の取り柄もないということだった。食いぶちにつながるような学歴も資格もない。あるのは190cmに届きそうな上背と、社会ではさして意味をなさないインターハイ優勝の経験だけだ。

自分はこんな場所にいるべき人間じゃない。職を転々としていた頃、常にアキラの頭の中にあった考えだ。すぐにカッとなり、トラブルを起こすこともしばしばだった。

「アキラ君さ、社会人なんだからもっと頭使ってくんないと困るよ。仕事ってのは球遊びほど単純じゃないんだからさ。これだからスポーツバカは困るんだよな」

そんなことを言われたのは、半年前、アキラが23歳になったばかりの頃だった。上司と歌舞伎町で飲んだ帰りに乱闘騒ぎとなり、アキラは警察へと連れていかれた。事件化は免れたものの、その職場は辞めざるを得なくなり、アキラは世話好きな制服警官から、今いるバーのマスターを紹介されたのだった。

床のモップ掛けまで終えた頃、店の電話が鳴った。

「おう、アキちゃん。もう店閉めちゃった?」

マスターは開口一番、男性にしては高い声でそう言った。電話の背後でダンスミュージックが流れている。40を過ぎているはずだが、足しげくクラブに通う、生粋の遊び人だ。アキラは店を閉めたと答えた。

「アキちゃーん、まだ店にいるんだよね、電話出られてるし」

アキラは嫌な予感がした。

「いや、もう帰ろうと――」

「俺今日さ、そっち顔出すって言ったけど、ちょっと無理になったからさ、明日の仕込みまでやっといてくんないかな」

アキラの予感は当たっていた。仕込みをするとなると、追加で一時間から一時間半はかかる。アキラはマスターから残業代の2500円をもらうという言質を取り、通話を切った。ため息が漏れる。

外から口論のようなものが聞こえてきたのは、アイスピックで氷を割っている時だった。言い合いは男女の間で行われているらしく、その激しさは増す一方だった。

「だからついてこないでってば!」

アキラは作業の手を止めた。警察に知らせた方がいいだろうか。そんなことを考えていると、バーのドアがノックされた。鍵は先ほど閉めてあった。

「ちょっとすみません! 誰かいませんか!」

アキラは入り口に駆け寄り、扉を押し開くと、そこには一人の女性が立っていた。長い栗毛が揺れる。その背後に迫るのは、長身の男の姿だった。髪を短く刈り込み、黒の革ジャケットに身を包んでいる。

「つきまとわれてるの」

女性が小声で言う。懇願するようにアキラを見上げる。

アキラは男に何かを言おうとしたが、その前に逃げてしまった。アキラの体格と、右手に握りしめたアイスピックがそうさせたようだ。

女性は軽く息を吐いた。

「お店はまだやってるの?」

「いえ」

「そう……」

女性は男が逃げていった先を眺めていた。一重だが力強い目元が印象的だった。

今、外に出て行くのは危ないだろう。今夜、ここは俺の店、先ほどの酔っ払いにはそう言った。

「開けますよ、店。酒を作る元気はないですけど」

女性はスツールに腰掛けると、ナオと名乗った。

「悪いわね、帰りたかったね」

ナオは子供に向けるような口調でそう言った。二十代中盤と思われるが、実際はもう少し歳を食っているのかもしれない。

瓶のコーラを差し出すと、ナオはそれを勢いよく飲み干した。

「あの男となんで揉めたんです」

「ちょっといろいろあってね」

「いろいろ?」

アキラが氷を割りながら返事を待っていると、ナオは目を細めてきた。

「あなた、バーテンなのに野暮ったいのね。バイト?」

助けてやったのにずいぶんと素っ気ない態度だ。アキラはむっとしたが、小さく頷いた。

「まさかあなたみたいな背の高い男の人が出てくると思わなかったわ。追っ払ってくれてありがたかったけど」

「俺、バーテンに向いてないんですよ。客に威圧感を与える」

「そう? 安心感があっていいじゃない」

無愛想かと思いきや、惹きつけるような言葉を飛ばしてくる。

「君、バイト始めてどのくらいなの」

いつの間にか呼び方が「あなた」から「君」に変わっている。

「半年です」

「なんだ、そんなもんか。マスターに失礼だと思わない? 半年でバーテンに見切りつけるってのはさ」

ナオは独特なリズムを持っている。無愛想かと思えば優しく、そして今はまた厳しい。掴みどころのない女性だと感じた。

「やりたくてしてる仕事じゃないですから」

普段のアキラは客に対して気持ちを吐露することなどない。しかし、ナオのために店を開けてやったのだ。このくらいの愚痴は許容してもらおう。

「なんだか面白そうな話ね。シラフで聞かせるつもり?」

アキラはナオの正面から退き、酒棚を見せた。このバーの客は三十代から五十代の男性が多い。若い女性はそれだけ珍しく、来たとしても会話をすることはほとんどない。ナオがダイキリを所望したため、アキラはラムの酒瓶を手に取った。

「ふーん、それで殴っちゃって、このバーを仕事先として紹介されたわけか。なかなかやるじゃん。あたしも殴ってると思う」

アキラは前職から今までの出来事をかいつまんで話した。バスケについても触れたが、ハルトのことは言わなかった。ナオは二杯目を傾け、アキラは客には出さない安ウイスキーを舐めて、共に酔い始めていた。

「今度はあなたが喋る番ですよ。どうして男に追われてたんです」

「野暮だって言ったでしょう。それともなに、あたしに気があって、恋愛事情が知りたいわけ?」

アキラは素早く首を振った。

「君さ、そんなに全力で否定することないでしょ。ひどい男」

そう言いながらナオはケラケラと笑い声を立てる。

「ただのしつこいナンパよ。ちょっといいかもと思ってお茶したら、態度変えてきたわ。これでどう? 安心した?」

アキラは肩をすくめてみせた。

「君はさ、彼女とかいないわけ」

「いませんね」

「猫ちゃんでも飼えば。いまうちにいるからあげようか?」

「急になんですか、猫?」

ナオは3杯目に手をつけ、顔を赤くしている。相当回ってきているようだ。

「あたし女友達と二人でルームシェアしてるんだけど、その子が猫ちゃんを三匹拾ってきたのよ。捨てられてて。漫画みたいでしょ」

「飼うんですか」

「一匹くらいなら飼ってもいいかなと思ったんだけど、そうしたら他の二匹は手放さなくちゃならないでしょう? もしかしたら殺処分になっちゃうかも。みんな可愛いのに、その中から一匹を選ぶのって、なんだが残酷だと思ったの」

「じゃあどうするんですか」

「考え中」

ナオは四杯目にはいかず、スツールから立ち上がった。万札を差し出す。金回りは良いようだ。

「諸々のお礼。お酒、美味しかったわ」

アキラは頷いた。ドアに手をかけたところで、ナオが言った。

「そういえば、君、名前はなんていうの」

「アキラです」

ナオは頷いた。

「また来るわ」

ナオは栗毛を揺らして歩き出した。その背中は、夜が白む歌舞伎町の街に消えていった。一人だけの店内が、いつもより寂しく感じられた。

それからというもの、ナオは度々店を訪れるようになった。

「あんた、閉店後も付き合ってくれるようになったじゃねぇか」

サラダを食い散らかしていく五十代の酔っぱらい客はそう言った。ナオがいれば、アキラは閉店時間を延ばす気になるのだった。

「おじさん、ちょっと飲みすぎだよ。リンゴみたい。あとなにこのサラダ。子供じゃないんだからさ、オリーブくらい食べなよー」

正面に座るナオが笑いながらいびる。客はばつの悪そうな顔をするが、気分を害した様子はない。

寄り添ってくれているのかと思いきや、軽く突き放される。そんな共感と攻撃を併せ持ったナオの会話のリズムは常連にも心地良いようで、オリーブだけでなくチップまで残していってくれる。

ナオとはプライベートでも会うようになった。食事を重ね、やがて腕を組んで歩くようになった。ナオの住む中野のマンションに行くことも、アキラの住む大久保のボロアパートに呼ぶこともあった。

部屋では決まって映画を見た。ソファに座りながら食べ物をつまみ、よく笑った。二人で夜を明かすようなことはなかったが、昼寝くらいならした。そこにはナオなりの線引きがあり、アキラが完全には男として認められていないという、不安定さを感じる要因になっていた。

ある日、アキラがマスターに代わって店を閉めると、外でナオが待っていた。小腹が空いたと言うので、深夜でもやっているラーメン屋に入った。

腹が減ったと言い出したのはナオの方、アキラよりも6つ年上の29歳なのもナオの方、アパレル企業に勤め確かな収入があるのもナオの方。だから、会計の時に彼女が金を出すのは自然なことだったのかもしれない。

もし俺がハルトだったら。すかさず伝票を持っていけたのかもしれない。中野まで、タクシーで送り出せたのかもしれない。歩いて帰るナオの背中に、自分の惨めさを見たような気がした。

「明日の仕込みまでやりたい? まあ俺が楽になるからいいけど、急にどしたんアキちゃん」

アキラの申し出に、マスターは驚いたようだ。アキラは来月、ナオとのデートを控えている。残業代で稼いでおきたい。

「アキちゃん、女でもできたの」

ナオと話すのはマスターがクラブに出かけていった後のため、二人の様子に気づいていないのだろう。アキラは軽く首を振っておいた。

「ふぅん、まあいいや。今日はカルパッチョの仕込みもあるからプラス1000円つけとくよ」

その仕込みは、ただタコの刺身を切るだけの簡単なものだ。アキラはマスターのこういう勢いのあるところが好きだった。

「アキラ君、待った?」

新宿駅前、ナオは後ろで結わいた髪を揺らしながら寄ってきた。夏を目前に控え、半袖に幅広のジーンズという格好だった。

デートの主な目的は、ナオの服選びだった。競合他社となる店舗での、夏服の商品展開についての調査も兼ねている。

服を品定めする真剣な眼差し、ステーキを頬張った後に見せる子供のような表情、並んで歩くときの凛とした横顔。アキラがそれらから感じるのは、安心よりも不安の方が強かった。自分はこの人に見合う男なのだろうかという不安だ。世界は強者で溢れている。挫折したアキラだからこそ、頭の中に強く根を張る考え方だった。

「無理しないでいいのに」

アキラが夕食を奢った時に、ナオからかけられた言葉だ。自分は無理をしているのだろうか。夕飯を奢ることが無理をしているように見える、その程度の男、ということなのだろうか。ハルトなら、もっと彼女を幸せにできる。富も名声も、全てを分け与えることができる。記憶の中の高校生のハルトを身近に感じるだけに、アキラはナオを奪われるような暗い感覚を抱いた。

「ねえ、花火じゃない?」

赤坂まで足を延ばし、堀の周りを歩いていた時、ナオがそう言った。確かに、パンと弾ける小気味の良い音が響いてきている。ビルに囲まれているため、花火の姿は見えない。

「東京湾の方かも」

「ナオさん、ちょっと待ってくださいよ」

小走りになるナオを追いかけた。よほど花火が見たいらしい。六本木方面に向かって歩くが、背の高いビルが増え、かえって花火が見づらい。やがて、東京の喧騒の中から、花火の音は消えた。ナオの悔しそうな横顔が見える。

「ダメだったか。中々花火なんて見れないんだけどな」

近くにあった小さな公園のベンチで、ナオは上がった息を整えながら言った。線が細く、女性的だが、少年のように見える時がある。

「ま、代わりにバスケを見るのも悪くないんじゃないですか」

アキラは公園のバスケコートで遊ぶ中学生くらいの四人組を指さしながら言った。ナオは頷いた。

「アキラ君はさ、いつからバスケ始めたんだっけ」

「小学生の時です」

「それで高校までやって、普通に就職したんだっけ」

「普通に就職というと、ちょっと違いますけどね」

「そうなの?」

「企業のスポーツ枠で入ったんです。アスリート社員って言うのかな」

「へえ、プロみたいじゃん」

プロ。その言葉が胸につかえた。

「それで、今は一丁前にバーテンしてるわけでしょ。バスケ続けなくてよかったの?」

「合わなかったんですよ、バスケ。好きだけど合わなかった」

合わなかった。そういう言葉で誤魔化さないと、ナオを不快にさせるかもしれなかった。

「ふぅん」

少年たちは一通り遊び終えたのか、水筒を自転車のカゴに投げ込み、公園から去ろうとしていた。

「ちょっと、僕たち、ボール忘れてるよ」

ナオが前を通り過ぎようとしている彼らを呼び止める。バスケットコートにはボールが取り残されたままだ。

「あれ、元から置いてあったやつなんだ」

そう言い、少年たちは都会の電光の中に消えていった。

「アキラ君がバスケしてるとこ見たいな」

ナオはベンチから立ち上がってボールを拾うと、アキラに投げて寄越した。

「今日は充分遊びましたよ」

「いいからいいから」

ボールのざらざらとした感触が手のひらにあった。表面についた砂を払い落とし、バウンドさせる。空気が若干抜けている。ドリブルの感触でそれが分かった。

「おーなんかそれっぽい」

それっぽい。アキラは「それ」を目指していたのだ。

ゴールまで一直線に駆け、レイアップでボールを投げ込む。簡単なシュートだった。

「かっこいいじゃん。3Pとかできるの」

アキラは3Pラインまで下がった。シュートを放つ。ゴールの枠に当たり、ボールは跳ね飛ばされた。ボールを拾い、二発目を放つと、それはネットを揺らした。

「すごいすごい! え、邪魔とかしていいのこれ」

そう言ってナオはアキラの目の前に仁王立ちした。大きく腕を伸ばし、シュートを妨害しようとしてくる。アキラは二度、フェイントをかけ、ナオのゆったりとしたディフェンスを避けた。放ったシュートは決まった。

「うわ、相手にならないじゃん」

ナオは凄いものを見たという気があるのか、嬉しそうに笑った。

その時、バスケコートの外で声を張り上げる、ナオの幻影を見た気がした。シュートを決めて叫ぶナオ、ファールが取られず外野から審判に抗議するナオ、ヒーローインタビューに出るアキラの頬にキスをするナオ。

今のアキラは、公園で小技を披露することでしか、ナオを喜ばせられない。

3Pシュートを放ち続けたが、だんだんとそれはゴールを外すようになった。

「神谷ハルトって知ってる?」

アキラは弾かれたボールを拾いながら、ナオに問いかけた。

「日本で今一番有名な選手じゃない」

「高校時代に同じチームで戦ってたんだ、ハルトと。インターハイも一緒に優勝した」

「え、そうなの⁉」

放ったシュートは、また弾かれた。下手になったな。そんなことを思う。

「二人でプロになると約束した。だけど、俺は靭帯も切ったし、椎間板もおかしくした。結局、ハルトだけがプロになった。それも、とんでもなく素晴らしいプロに」

ナオは黙っていた。この静寂は嫌いだなと思った。シュートがまた外れた。

「妬んでるわけじゃない。ハルトはもっと上手くなれると思うし、NBAにだって行ける。あいつにはとことん強くなってほしいんだ。ただ、なんで俺はバーテンやってんだろうって、思わないことはない」

喋らなくては。静かになってはいけない。アキラは涙でぼやけた視界の中で、饒舌に振舞った。

「俺だって、きっとプロになれた。スカウトだって来てた。契約の手続きの途中、俺は酷いファールを受けた。本当に酷い、酷いタックルだった。俺はハルト以上に頑張ってる自信があった。もっと強い男になれたんだ。ナオさんをもっと喜ばせて、安心させられるような男になれたはずなんだ」

涙が溢れて止まらなかった。ナオの匂いを近くに感じる。アキラは背後から抱擁を受けていた。

「ありがとう、アキラ君」

ナオの抱擁が強くなる。

「あたし、喜んでるよ。アキラ君といると、安心するよ」

アキラは嗚咽が漏れた。自分が恥ずかしく、惨めだった。

「確かに神谷ハルトは素晴らしい人だと思う。でもね、アキラ君も素晴らしい人だよ」

ナオはアキラの背中に顔を当ててきた。その部分だけが妙に熱く、そして濡れていた。

「捨てられてた猫ちゃんね、三匹とも飼うことにしたの」

ナオは涙声で言った。

「だって、一匹なんて決められないんだもん。みんな可愛くて、みんな甘えん坊さんなんだもん」

ナオは顔を強く擦りつけてきた。ナオの嗚咽が、アキラのそれと重なる。

「神谷ハルトが強い男で、アキラ君は弱い男。そんな風に思ってるんでしょう。だから頑張って奢ってくれたんでしょう。でもね、それは違うよ。彼もアキラ君も、どっちも等しくて、どっちも同じ猫ちゃんだよ」

ナオはアキラの正面に回り込み、泣き腫らした瞳で見つめてきた。

「だって、アキラ君も頑張ってる。アキラ君が今こんなに悔しいのは、誰にも負けないくらいの努力をしたからだよ。じゃなかったら、人間こんなに泣けないよ。しかも頑張ったのは過去だけじゃない。今もバーテン頑張ってんじゃん。確かに神谷ハルトは世間からその努力が認められてる。女の子からもキャーキャー言われてるかもしれない。だから、アキラ君の努力はあたしが認めてあげる。世の中の歓声に負けないくらい、アキラ君を褒めてあげる」

その時、ナオの唇が、アキラの頬に押し当てられた。伸ばした手が、アキラの頭に触れる。

「頑張ったね」

俺は、認められたかったんだ。自分のしてきたことが無駄ではないと、言ってもらいたかったんだ。ナオに撫でられて、アキラはそのことに気づいた。

「俺、ナオさんを幸せにしたい」

アキラの口から、そんな言葉が突いて出た。

「おうおう、なかなか大胆なもんだ」

口調は強いが、顔はまだ泣いている。くしゃくしゃになった栗毛をかきあげる。

「もう幸せだよ。泣きながら言うな、バカちん」

ナオは今日も優しく、そして厳しい。


「アキちゃんさあ、区役所通りに空きテナントがあってさ、そこにもう一つ店出そうかと思ってんだけど、そこのマスターやんない?」

アキラは砕いていた氷を取り落としそうになった。

「ま、マスター?」

「うん。だってアキちゃんセンスあるじゃん。作れる酒の種類はまだ少ないかもしれないけどさ、アキちゃんの酒、美味いって評判だよ。その体格なら暴漢来ても対処できそうだし」

アキラはマスターの言葉に胸が躍った。

「すぐに決めなくていいからさ」

「考えておきます」

アキラはあまり感情を出さずにそう答えたが、心はほとんど決まっていた。

ナオと出会ってから、自分に対して冷たいと思っていた世界が、急に温かく、心地よいものに変化していた。俺には俺の人生がある。それは誰かと比べるようなものじゃない。ナオはそのことに気づかせてくれた。

開店時間になると、ドア鈴が鳴った。そこにはナオが立っていた。いつもは閉店間際に来るため、アキラはいささか驚いた。

「アキラさ、明日、花火大会あるらしいんだけど、行かない? 前見れなかったじゃん」

ナオが差し出したビラを受け取る。荒川の河川敷で打ち上がるようだ。

「アキちゃんの女って、この人なのね」

マスターは合点がいったようにナオを見た。そしてアキラの肩に軽いゲンコツを当ててくる。やるじゃん、ということだ。アキラは小さく頷いた。

「なに照れてんのよ。もっと胸張りなさいよ、あたしの男なんだから」

そう言ってナオはアキラのことを睨みつける。最初に笑い出したのはナオだった。本人が一番照れている。三人の笑い声が、小さなバーを満たした。

「何を飲むんだい、ナオ」

「ダイキリ。ライム添えてちょうだい」

アキラは頷くと、ラムの瓶を手に取った。シェイカーに映る自分の顔は、明るかった。

(完)

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