信じてる。一生懸命やったことは、ちゃんと報われるって。
努力は報われると言う人がいる一方で、必ずしも報われるか分からないと言う人がいます。
「どっちが本当なの?」と混乱している人も多いんじゃないかって感じています。
何を信じるかは人それぞれちがうし、ちがっていい自由がある。
その上で私は、「努力は必ず報われる」と思っているんです。
「努力」という言葉には苦しいイメージが伴うから、本当はあまりこの言葉を使いたくありません。
ただ、ここでは何かを続けて工夫しながら進むことをイメージしやすいように、「努力」と呼ぶことにしています。
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努力は必ず報われる。
王貞治はこんなことを言いました。
「努力は必ず報われる。
もし報われない努力があるのなら、それはまだ努力とは呼べない」って。
後半の名言は、真髄をついているんじゃないかなと思います。
報われるほどの努力は、想像できるレベルのものじゃない。
みんなの想像をはるかに超えています。
来る日も来る日も、寝る時間以外、ずっと作業や活動のことを考え続ける。
個人的な話になってしまいますが、私が「努力は必ず報われる」という言葉を支持するのには、理由があります。
大学受験です。
これを通して、その言葉が本当だと思えるようになった。
私は度肝を抜くほど、ノロマで要領が悪いです。
テスト前日に勉強しただけで、いい点の採れる親友にはとうてい及びません。
中学生の頃なんか、英語の成績が悪くて親が先生に忠告されたくらいでした。
物覚えの悪さを自分でもよく分かっていたから、人より受験勉強は早くはじめたのです。
そして私にとって、ゆっくりコツコツ勉強することはとても楽しかった。
英語と世界史が好きで、受験勉強中は英語を読んで、世界史の資料集を広げたりするたびに、知らない世界にワープした気分になりました。
楽しくて楽しくて、高校3年生の時は朝から晩まで、大体18時間(最低でも16時間)受験勉強ばかりしていました。
「自分は努力しているんだ」なんて自覚できないくらい。
その結果全国の模試での成績は私立文系では常に最上位だったし、慶應文学部をはじめとした志望校にはすべて合格しました。
才能が無くて、おまけに飲み込みがおそい私は、無自覚にも「努力」と呼ばれる状態に達してたんだと思います。
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「努力」という言葉はあまり好きじゃない、とさっき言いました。
なぜなら努力という言葉が出てきてしまう時点で、その活動を楽しむ気持ちがなくなっているからだと私は考えています。
楽しめないということは、本当はその活動が好きではないとうこと。
活動を通して利益を得たい、有名になりたいと思う気持ちが大きくなってしまっている状態です。
下心をお見通しの神さまが、「君には心から没頭できるものが他にあるよ」とサインを出しているということなんじゃないかって思うんです。
努力っていうのは、他の人が評価として使う言葉なのではないでしょうか。
「あの人は努力しているよね」、「努力家だよね」といった使い方をします。
はたから見て努力している人は、自分が努力しているなんて1ミリも思っていないことがほとんどなのだと思います。
ただただ、無心で、できなかったことをできるようにしたいと一心に思って走っている。
もしくは夢中で遊んでいるような感覚です。
そんな状態である限りは、うまくいかない時「努力が足りないんだ・・・」とは思いにくいはず。
「どうすれば実現できるんだろう、方法を変えてみるか!」って考え直す。
これが俗にいう、工夫と呼ばれるものなのではないでしょうか。
無心で楽しむ気持ちと、工夫の積み重ねを、他人は「努力だ」と呼んでいる気がします。
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もしも、「努力は必ずしも報われるわけじゃない」なんていう人に会ったら、こう言ってみようと思います。
「努力って言ってしまう時点で、本当に夢を叶える決心はできていないです。そんな人が『努力は必ずしも報われるわけじゃない』って言うんだと思います。私は思い描いたものは、必ず形にできると思っています。夢はかなうと思っています。何かを生み出せる人間でありたいと思っています」
そして一生懸命、自分の頭で考えて、思い描いたものを形にしていきたいです。
その姿はたくさんの人をはげますだろうし、今まで以上に世の中がいい場所になるはずだから。
「努力は必ず報われる」と人に信じさせられる人が増えれば、たくさんのいいモノが生み出されるはずだ。
みんなで夢は叶えられるということを、私は証明したいです。
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