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時間も芸術

ふと昔のことを思い出した。

小学生の頃、図工の時間に粘土で作品を作った。

私は、馬か牛かカバか豚かそれとも他のなにかの動物を作ったのだ。


クラス皆の作品はしばらくの間教室の後ろ、ランドセル入れの棚の上に並べられた。


私の作品だか、その何かの動物の横に『餌』なるものを小さく丸めた粘土で作って置いていた。


小学生の頃は、学校で飼っている動物の餌やり当番があった。

その餌やり当番が好きだった。


動物のそばには餌を置いといてあげたかった、または粘土の動物にさえ餌をあげたかったのか、今はそんなところだろうと想像する。


数日が経ち教室の後ろへ行くと、私の作った餌が無くなっている。

その代わりに動物の口の中に粘土が詰め込まれていた。

私は確かに「餌やりどうぞーー!」とでも言わんばかりに用事していたので、食べさせた人を責める事はできない。



ただ幼い頃は単純に作品が壊された
(壊されてはいない、口がパンパンになってるだけだ)

と悲しくなった。



そんなことを思い出し、友人に笑い話として話した。

そうするとその友人がこう言った。




その作品を作った時点から、誰かが餌やりをしている時間、そして餌がなくなるまで、動物の口がパンパンになる、全てがその作品なんじゃない?

時間経過も作品だったんだよ。と





この言葉で幼い私は救われた。


いたずらっ子が口に粘土を詰めただけかもしれない。
または動物好きの子が楽しんで餌をあげたのかもしれない。


その時の私の作品は一人では完成されなかった、誰かとの時間をかけた芸術だったのだ。



私の思い出は作品が壊れたと言う少し胸がチクッとするものだった。


しかしこの友人の言葉を含め、私の何か思い出せない口がパンパンになった動物が私の中で貴重な作品となったことは間違いない。

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