見出し画像

戦争は理解に苦しむが、全く他人事とも思えない自分もいる

 ウクライナで現在起きている出来事が、これまで生きてきた経験からすると、余りにも非現実的すぎて、ショックを受けています。

人類は歴史的にその発展段階において住む場所や食料を求めて、多くの戦いを繰り広げてきました。その中でも中世から近現代に至る多くの戦争は「戦士や戦闘員」が一般市民の暮らす場所とは別の場所で、敵か味方かを識別する為の「戦闘服」や、「指物(さしもの)」呼ばれる「敵味方を識別する旗」を立てて行うなど、基本的には市民生活とは別の場所で行うものでした。

 

しかし、先の世界大戦末期では、市民を標的にした「空襲」や「原爆投下」などの大量破壊兵器が使われたことを世界中が反省し、一般市民を攻撃する戦闘は建前上行わないことになりました。ところが現在報道されている映像を見る限り、一般市民の生活場所を躊躇(ちゅうちょ)なく攻撃する映像が多く流されており驚きます。

人それぞれ価値観は異なると思いますが、ロシアの行っている行為を例えるなら、隣の住民が突然やってきて「そこの土地は100年前、俺の先祖の土地だった」と言って、武器を持ちながら「出ていけ!」と言っているように感じます。

世間にはロシアを擁護し、喧嘩両成敗的な評論をする人もいるようですが、このような事が、自分や家族に起こったとしても、同じような事を言うのだろうか?人と違う意見を言う自分に酔っているのか、マウントを取りたいのではないか?理解に苦しみます。

早く、このような理不尽な事が終わることを願うばかりです。

 

福沢諭吉は「天の上に人を造らず、天の下に人は造らず」と有名な言葉を残しています。

これは「万人は皆同じ地位と資格を持ち、生まれながらにして平等である」という事を言っていると思います。しかし、現実は生まれた時は平等でも、次第に格差は広がってしまう。

だからこそ福沢諭吉は「学問をすすめる」と言っているわけですが、それ以前に個人の「心構え」としては何が必要なのでしょうか?

 

大きな要素の一つとして、個人的には「自立心(独立心)」ではないかと常々感じています。自立心の無い人は、信念がありません。信念が無ければ「人を納得させること」が出来ません。

また、自立心の無い人は、他人をあてにします。他人をあてにする人は、相手を気にしてお世辞を言います。自分の意見を持たなければ、他人の意見に左右され、人を見た目で判断し、時に「おじけづき」足元を見られれば、利益を奪い取られることもあるでしょう。

 

 人間の自立とは「衣食住を自分で行う」ことだけではありません。それでは昆虫の「蟻(あり)」と同じですね。蟻でさえ巣を作り、食糧を貯えます。

人として「自立」するというのは「経済的独立」と言った表面的なことではなく、「社会の一員として、その立場を自覚し、相互の幸福のために高い目標を掲げ、自分の存在に誇りを持ちつつ、社会や家族、友人や仲間のために貢献する」ことではないでしょうか。

 

ウクライナで起きている出来事は、「自分の利益のためなら、他人から奪い取っても手に入れる」という本来人類が目指すべき方向とは真逆のように思えてなりません。しかし、人間は弱い生き物です。いつか自分がエゴイズムに侵され、傲慢(ごうまん)な存在に変化してしまう事もありえると思います。今回の戦争はとても理解に苦しむ出来事ですが、全く他人事とも言い切れない気もしています。

 以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?