見出し画像

娘の部屋を作ったら、小説が読めるようになった話。

娘に「自分の部屋が欲しい」と言われ、はや1年以上。小学校低学年のうちはまだいいじゃないかと思い、じゃあ断捨離しよっか、自分で片付けられるようになったらね……みたいにのらりくらりとやりすごしていた。すると娘はちゃんと歴代のおもちゃを断捨離し、掃除のお手伝いもちょいちょいやるようになった。そして、ある日さらりとした口調で言ったのだ。
「ママはいつ約束を守るの?」

ええと!いま…じゃないけどもうすぐ!
ついに一念発起して娘の部屋を作ることにした。今年の春休みの一大行事である。

私はまだダイニングテーブルで仕事して、ご飯の時間になると片付けて、というヤドカリ生活だというのに、その上に自分の寝場所すらもなくなるのかあ。子供を育てるというのは自分の場所をあけわたすことなのか?だってもともと二人で寝ていた部屋を娘の部屋にするのだから。何から始めるべきなのかと迷いつつ、まず自分と娘が一緒に使っていたダブルベッドを粗大ゴミに申し込んだ。

なにはともあれ、自分が寝る場所を確保しないといけない。イオくんの書斎を縮小し、夫婦が寝る部屋と兼用にするというオプションもあったんだけど、現実を見てみると、彼はオンライン会議やスクールなどで夜遅くまで起きている。なのに私が寝るのは夜10時。だいたい彼の書斎は本や仕事道具などの物量が多く、とても私が闖入しできる場所には感じられない。(むしろ治外法権と呼んでたくらいだ)
というわけで、選択肢はひとつだけ。リビングとつながる6畳の和室。その片隅を夜だけ自分の部屋にするのだ。

最初の3日間はあまりよく眠れず、ほんとにこの部屋で眠れるるようになるだろうかと大いに不安だった。ただし、部屋自体はとてもいい部屋だなと気がついた。それまでこの部屋はピアノや絵本、漫画、おもちゃなど娘の雑多なものでで溢れていた。それらのものは全て新しい娘の部屋に移動!
すると部屋はスッキリ、窓からは公園の緑が良く見えるように。襖をびしっと閉めてしまえばかなり個室っぽくなるのも発見だった。

それよりも、まったく予想しない副産物があった。
本が読めるようになったことである。
もうちょい正確にいうと、海外小説が読めるようになったことだった。

私はこの何年か、もともと好きだった海外小説が読めなくなっていた。理由はわからない。とにかく集中できない。没入できない。最後まで読みきれない。ノンフィクションは日本のものでも海外のものでも読めるのに。(日本の小説はもともとほぼ読まない)

それが、この春、部屋を変えたとたん、なんということでしょう、読めるじゃありませんか。
長いトンネルを抜けたらそこは読書の国でした、という気分だった。

その前に、なぜこのタイミングで小説を読みはじめたのか?それは、4月初めに韓国に行ったたからである。ソウルで翻訳家の牧野美加さんに会うことになり、飛行機の中で牧野さんが訳した『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』を読み始めた。ソウルの小さな本屋さんを舞台にした小説で、読み始めるなり、この本が醸し出す雰囲気に惹かれた。まるで自分がヒュナム堂の常連になったかのような。

実は、その物語の中に、本を読めないという人が登場する。そこで、読書好きの店主が20分間のタイマーをかけて読んでみたらどうかとアドバイスする場面があった。なるほど、なるほど、それはいいかも。

私はその劇中のアドバイスをダイレクトに取り入れた。20分のタイマーをかけ、『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』を再開。ただ20分間、この本に集中していればいいと思うと嬉しい。
おかげで、洗濯物が干してあるのに雨が降りそうなこともメールの返信を放置していることも気にならず、スマホの通知もまるで見なかった。20分は長くも短くもなく、ちょうどよかった。

厳密にいうとこれは娘の部屋を作ったことと関係ない。ええ、全く関係ない。ここまではタイマーの効能の話です。いよいよ、ここから部屋の話である。

また夜になり、私はふすまを閉め、部屋を共有モードから個室モードに変えた。そして、再び20分のタイマーをかけた。
翌日からはもうタイマーをかける必要がなくなった。単純に『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』がとても面白く、読むのをやめられなくなったからだ。

普段なら、私はこのへんでノンフィクションに戻るところだ。いつも読みたいノンフィクションがいっぱいある。しかし、この時、自分はいま何かが今までと違うという予感があった。
そこで、試しに・・・と次も小説を選んだ。半年ほど積読状態だったイタリアの小説『帰れない山』。山を舞台にした小説で、それまでの世界観とは大きく異なったものの、すっと入り口をくぐったあとは最後のページに行き着いた。

その時、ふと思った。もしかしたら、この部屋が小説の世界に没入させてくれるのかも!
客観的に観察すると、この和室には、あまりものがない。あるのは、ベッドと小さな棚だけ。内装もシンプルで、カーテンも無地。夜は暗く、人工物がほとんど見えない。要するに視覚から入ってくる情報がとても少ない空間だった。そっか、これが読書にいいのかもしれない。映画館で見る映画のように。

自分の部屋を手に入れた娘は、夜9時には寝るようになった。そして朝早く起きて自分の好きなことをすると言い出した。健康的だし、いい考えだと思う。朝早くやっていることに関しては、それが何かはわからない。どうもその日によって違うようだが、とにかく彼女は一人時間を謳歌していた。こうして娘が自分ひとりの時間を大事にするようになるのは嬉しいけど、ちょっと寂しいのも本音だ。ああ、もう夜中に掛け布団をかけなおしたり、不思議な寝言を聞いたりもできないのね、と思うだけで泣きそうになった。

とはいえ、そんなセンチメンタルな気分だったのは二日くらいで、私は夜9時になると、本を開くことが習慣になった。

本棚には積読がたくさん、ある、ある。以前、ーーたしか青山ゆみこさんだと思うのだがーー、本というものは買って手元に置くだけで読んだことになる、というようなことをTwitterで読んだ。うんうん。ここ何年か私は、読まないかもしれないけどとりあえず買っておこう、また長い小説が読みたくなる日がくるかも、という期待と願望だけを胸に、海外小説を買い集めてきたのだった。

4月には台湾の短編小説集『蝶のしるし』を読み終えた。複雑な台湾という国の奥のさらに奥を垣間見るような素敵な短編集だった。さらに、ミヒャエルエンデの『モモ』も再読した。時間泥棒の話はいまの自分に染み入った。私は家から出ないままに、静かに、そして遠くへと旅をしていた。

5月に入るとジュンパラヒリの『低地』(インドのベンガル地方とアメリカ東海岸が舞台)を読了。次に手に取ったのは、在日コリアンの家族4世代を描いた『パチンコ』だ。上下巻で合わせて700ページもある大作だったが、一度読み始めるともう止まらない。文句なしに傑作だった。

実は私は、今年の4月までずっと仕事と出張で目一杯走り続けてきて、ここにきてガクンと谷間に落ちるように気力をなくしてしまっていた。この何年もしっかり休んだ記憶がないんだから、当たり前かもしれない。休まなければいけないのは明らかだった。もしかしたらこれも更年期のせいか?と思ったり。

こうして小説の世界に逃避しつつ、日々の読書時間や自分の居場所を取り戻すことで、自分の大事なことにチューニングが合ってきた感じだ。逆に妙に元気になってきて、連載をふたつも始めることになってしまったり。
そうだ、失うものもあれば得るものがある。この場合は、娘の部屋を作ったら、小説が読めるようになったという話である。




この記事が参加している募集

#新生活をたのしく

47,932件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?