夫婦喧嘩は子どもの大好物
2020年4月3日(金)
【Day 15】
「夫婦喧嘩は犬も喰わない」と申しますが、我が家の場合はちょいと様子が違うようで……
今日は朝も早よから家族全員(除く三女)で、アッコの会社が福利厚生で用意してくれたオンラインヨガ(キラキラした女性コーチでなく、いかつい男性ヨギーによる本格的なやつ)をたっぷり1時間堪能し(いや、なんとか乗り切り)、心身ともに爽やかな1日を送れると思っていた。
実際、昼食が済むまでは、実に平和で朗らかな“ハッピーフライイェイ(Happy Fri-yay、こちらでは嬉しい気持ちを表して本当にそう言うらしい)”であった。
******
青天の霹靂は気怠い午後3時に訪れた。
「大変、大変!」
突如としてアッコが2階から駆け下りてきた。
その慌てぶりからして、これはただ事ではない。まさかコロナショックでアッコが突然解雇されたのか? 今ならありえない話ではない。こんなに決死の出国劇を演じたというのに。しかもしばらく日本へ変えることはできないのだ。どうしようどうしようどうしようどうしよう——
「明日インスペクション(内見)行けるって!」
……なんだ、そういうこと?ビックリさせやがって。
今の所我が家が日々を過ごしているのはあくまでもエアビーという仮住まいであり、今後、長きに渡って根を張るための家は改めて探す必要がある。
そして、2週間のセルフアイソレーション期間がめでたく終了したため、ようやくハウスハンティングに繰り出すことが可能となった。
不動産業者に(アッコが)確認したところ、どうやら外出禁止期間とはいえ、生活に必要不可欠な行動については認められるらしい。
そしてそのアポイントメントが急遽明日取れることになったという連絡を、リロケーションサポートのエージェントからもらった、という状況のようだった。
ついては、内見したい家のリストをASAPで寄越せという指示が出たため、アッコは慌てふためいているのだった。
「リストの中のどの家が見たい?」
ツムツム……いや、仕事の準備に励んでいた僕は虚をつかれ、同様に慌てふためいた。リスト?そんなの見せられたっけ?送られていたのにツムツ……仕事をしていて見てないなんて言えない。絶対に言えない。思い出せ、思い出すんだ。
そこで僕は、午前中にアッコから転送されてきたメールに思い至った。確かにそのリンクを開くと、一軒の物件紹介ページだった。ざっと室内写真に目を通しただけだったが、それはなかなか良い物件に見えた。
「ああ、さっき送ってくれたヤツが見たいね」
ごくナチュラルな返しだった。タイムラグもほとんどなかったはずだ。なのに、アッコの眉間にシワが寄った。
「さっき送ったヤツのどれ?」
アッコは明らかに苛立っていた。
「どれってどういうこと?」
「9軒ぐらいあったでしょ!」
アッコの、明らかに僕を咎める言い方にカチンと来た。なぜなら、そのリンクには間違いなく一軒分の紹介ページしか存在しなかったからだ。僕は、スマホのリンクをタップし、表示されたページをアッコに突きつけ、鬼の首を取ったように宣言した。
「一軒しかなかったよ、ほら」
アッコは全く動じなかった。そして次の瞬間信じられない行動を起こした。僕の突き出して見せたサイトの左上に表示されたグローバルナビをタップしたのだ。
「ここから『RENT』のページを選んでよ!わかるでしょ」
アッコの物言いは明らかに「何してんのこのドジでのろまな亀は!」という色を含んでいた。
いやいやいやいや。ちょっと待て。
メールでリンクに添えられていた文言は「おうちみてみてー」(原文ママ)のみだ。しかもそれはメールのタイトル部分で、本文にはリンクしかない。このメールが送られてきて、「最初に表示されないページのリスト」こそがアッコの意図したページであることを理解できる人間はいない。
「送られてきたリンクを開いたら一軒しかないんだから分からないよ」
いつもは500歩譲るのが常の僕も流石にここは主張した。
「なんでわかんないのよ」
アッコは僕の主張をその一言で片付けると、すごい勢いでエージェントに返信メールを打ち出した。
「わかるわけないじゃん!」
僕が少し大きな声を出すと、それを聞きつけた長女が、「これは美味しい展開」と言わんばかりにニヤニヤし始めたのが視界の隅に見えた。そして、格闘技の観客よろしく「そうだそうだ」と野次を飛ばした。一応、この状況においては僕を支持してくれているようである。
「なんでもいいけど、急いでるから早くリスト見てよ」
もはやアッコは苛立ちを隠すこともなく、僕を攻め立てた。
まあいい、大事なのは僕の主張が正しいことじゃない、素敵なお家を見つけることだ。そう自分に言い聞かせ、僕はリストに素早く目を走らせた。3ベッドルームの物件の中からサムネイルの写真が素敵なものを見繕うと、「ここが見たい」とアッコに示した。しかし、爆速でメールを打ち続けるアッコは、PCの画面から目を離さず、手を止めることもなくこう言った。
「ここ、じゃわかんない。住所で言ってよ。書いてあるでしょ」
ゆったりツムって……いや仕事をしていた3分前が嘘のように、謎に攻め込まれる僕。腹落ちできないその状況と、僕の英語の未熟さが信じられないミスを誘発した。
「えーと、Wallstonecraft」
「は?」
「だからWallstonecraftだって」
確かに、物件所在地の欄にはWallstonecraftという記載はある。 だがそれは、日本で言えば物件の所在地を聞かれて「上原」と答えているようなもの。範囲が広すぎるのである。物件のリストはほとんどがWallstonecraft地区のものだったのだから、アッコからしたらそれは間抜けな答えでしかない。僕はストリート名で答えなければいけなかったのだ。
「違うよ!もう!!」
アッコはついにキレた。そして僕もキレた。
「なんでそんなにキレるわけ?」
「急いでるからに決まってるでしょ!」
「急いでても言い方ってもんがあるでしょ!」
「だったら前もってリスト見といてよ!」
「あのメールでいくつも物件があるなんてわかるわけないじゃん!」
「わかるよ!」
「いやいやいや、例えばクライアントあのメール送って通じると思う?」
「わかったわかった!もう選ばなくていい!私が全部選ぶから!」——
——夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、このレベルの低い口論を、長女はずっとニヤニヤしながら眺めている。そして、次女や三女も、少し遠巻きに、耳をダンボのように広げて興味津々で口論の行方を見守っているのが我が家なのだ……
「あれはね、喧嘩じゃなくて、仕事が忙しくて大変だから、おとうに八つ当たりしただけだよー」
とは、不貞腐れていた僕にアッコが言い放った言葉である。
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