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幼く感情を垂れ流したら、まだ生きていた

ありんごです

現実世界で、知っている人とご飯を食べてひたすら感情を垂れ流されたらどう思うだろうか。

相当仲の良い人、好きな人であってもうんざりしてくるんじゃないだろうか。

人によって許容量は違うと思うけど、流石に一方的にばーっと感情を垂れ流されていい気分になる人は少ないのではないかと思う。

生きているとそのことに気づいて、人に対して感情を垂れ流さなくなる。正直であること、素直であることと感情を相手にぶちまけて垂れ流すことの違いに気づく。

単に垂れ流すのでは相手に嫌がられるだけでなく、自分も満たされないことに気づく。はっとする。

それで、どうなるかというと感情を自分で処理しようとする。たいていどんづまる。なぜか、大抵の場合処理していなくて、実際には溜め込むだけだからだ。というか、感情を抑え込んでいるだけなのだ。

人にぶちまけても満たされない。溜め込んでも爆発しそう。爆発して人にぶちまけて、振り出しに戻る。それを見て、「子供じゃないんだから」「しょうもない」と注意するその人の目も死んでいる。たしかにおっしゃる通りなのだけど。でも、いいのかそれで。その人も、あなたも、私も。

恥ずかしくて消え去りたくなる夜も、消え去れなくてああ今日も人と繋がれないだろうなと目に涙が浮かんでくる朝も、まだ消え去れず悶々とする夕方も、そしてまたやってくる夜も、私を消し去ってはくれない。

ほとばしる感情を人にぶつけない。そう決めている。でも、じゃあ、その感情はどこへゆくのか。そもそも私は私の感情をちゃんと感じてきただろうかと、ふと思う。実際には人にはぶつけないけど、人にぶちまけるかのように自分の中、感情を言葉にしてみる。

思っていることはあるはずなのに言葉にならない。仕方ない、ならば書いてみよう。

ほとばしるはずなのに、ペンが進まない。言葉が出ない。3日間考えても、心がカチコチだ。

とりあえず、近いニュアンスの言葉で表してみる。ちょっと違う気がする。より近い言葉はこれだと思って書いてみる。少し近づいた。でも疲れてしまってその日はおしまい。そんな繰り返し。

また3日経った。いや、本当はもっとこういうことを思っているんだ。そう思って言葉を連ねる。こうして書いて、書いて、書きまくる。

だんだん、ペンが進む。

溢れてくる。止まらなくなる。もっともっと、私の本当の気持ちに、近い言葉を。現しきれなくても、それでも。

こんなにも抑えていたのかと思う。人に言うのも憚られる感情をもひたすら書きつける。だんだん、幼い言葉になっていく。

私は私の声をいまだかつてこんなに聞いたことはあっただろうか。涙が一筋、こぼれ落ちる。止まらない。どうにもならない。涙も、現実も。それでも、私は私の声を聞いてあげたい。私しか私の言葉を本当の言葉を聞けない。

人に感情をぶちまけられて微妙な気持ちになるのは、自分のやるべきことではないとわかっているからなのかもしれない。だからそれでいい。冷たくなんてない。自分の気持ちは自分がわかってあげないとね。

私は私の気持ちを、もっと早く聞いてあげればよかった。私はずっと私に殴られて泣いていたのだ。本当はずっと。

泣き疲れて、天を仰ぐ。寂しかった。今だって寂しい。悲しかった。今だって悲しい。それだけなのに、それが本音なのになあと目を閉じる。

ああ寂しい、泣きたいのは私だよ。他の誰でもない、私。感じ切る、すべて。過去も現在も未来も、私の感情を私が感じ切ると決めた。

私は私に感情を垂れ流す。幼く幼く垂れ流す。かっこ悪かろうが構わない。私は私の声を聞く。私が私に身を預けてそっと微笑む。寂しかった、悲しかった、寂しい、悲しい、これからも寂しいことがあるかも、悲しいことがあるかも、でも、私は私と一緒にいる。それなら、ありかも。

幼く感情を垂れ流したら、私は、まだ生きていた。

ありんご


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