ばあちゃんの日記。
祖母がアルツハイマー型の認知症と診断されたのは、祖父が亡くなって数ヶ月のことだった。
祖父母は一緒に居れば喧嘩ばかりのように見えたけれど、なんだかんだで祖母が祖父のことを本当に大切で大好きだったのだと実感したのは特別養護老人ホームに入る必要があるほど病状が悪化してからのことだ。
祖父が亡くなってしまったという事実がすっぽり頭から抜け去って、もうこの世にはいない彼の名前を何度も呼んでは『お家に帰りたい』とぼんやり俯く光景は今でも鮮明に思い返すことができる。
特養に入る前、症状の進行具合がさほど酷くないと感じていた頃のこと。
近くに住んでいた私の家族は祖母との同居を試みたことがあった。私はその頃、小学生だったと記憶している。
私の両親は自営業で住まいと職場が扉一枚で区切られているので、何かあったときにすぐ対応できるという点もその試みの理由だったと思う。
しばらくは学校での出来事を話したり、一緒に夕食を取ったりと和やかな時間を過ごす日々が続いた。
一方で、祖母はたまに癇癪を起こして「どうして私をこんなところに閉じ込めるのか」と声を荒げることがあった。
ある日、学校から帰宅し、いつも通りのんびりと過ごしていると祖母に呼ばれた。
「どうして私をこんなところに閉じ込めるの?」
「閉じ込めてないよ、一緒に暮らしてるでしょ。」
「外に出して、お家に帰りたいの」
「今はここがばあちゃんの家だよ」
「そんなはずがない、玄関の鍵の開け方がわからない、私をここから出して!」
私も祖母もパニックを起こしていたと思う。
祖母は足が悪く、転んで骨折することもしょっちゅうだったので杖を常備していた。祖母はその杖を振り上げて私を威嚇し、私はそんな祖母に近づけなくて言葉で応戦をするのみだった。
両親に助けを求めたが、仕事からなかなか離れることができず、「すぐ行くからちょっと待ってね」と振り返りもせず口で宥められただけだった。
この時のことを振り返ると、両親は私のことを信頼してくれていたのだろうとも思うし、私がこちらの状況を正確に伝えられなかったこともミスだったと思う。
玄関の鍵をこじ開けようとする祖母とそれを必死に止める私。
ぷつん。
私の中で瞬間的に緊張の糸が切れて、『そんなに祖母が外に行きたいのなら一緒に行けばいいか。』という考えに至った。
両親に一言、「ばあちゃんと外出てくる」と伝えて玄関の鍵を開けてしまった。
「私も一緒に行くね」と祖母に声をかけて外に出たのだが、田んぼに挟まれた細い道を歩き始めてすぐ、祖母がまた杖で威嚇を始めた。
「ついて来るな!」
足の悪い祖母はゆっくり進んで、私の方を振り返って杖を振り下ろした。何度も。
私は身の安全を担保できる一定の距離を保って祖母の後ろをついていった。『きっとそのうち疲れてどこかでへたり込むだろう、そしたら連れて帰ろう』なんて甘い考えでいたのだけれど、なかなかその時は来なかった。
そのうち私は耐えられなくなってボロボロと大粒の涙を流しながら「ばあちゃん帰ろうよ」と呼びかけ続けた。
400mほど歩いた頃、携帯も所持していない私はこれ以上家から離れると誰にも助けを求められないかもしれないと不安になり、走って家に戻ることにした。泣きながらきた道を走る。
玄関の扉を乱暴に開け、泣きながら両親に助けを求めた。
「ばあちゃんがどっかいっちゃう、止められない、助けて!」
只事じゃないと察した父が仕事を中断して慌てて車を出した。父は父で、私は私で探そうともう一度外に出て走った。
考えられそうなルートを一周して家に戻ったが私は見つけられずわんわん泣いて帰宅した。そんなに遠くには行っていないはずなのに、祖母の姿が見当たらないという不安に「警察」とか「捜索願」とかそういう物騒な文字が頭をよぎった。
しばらくして、父が祖母を見つけたと連絡をくれた。
祖母は家から600mほど離れた田んぼの脇道で座り込んでいたらしい。それは私が歩いたことすらない道で、そんなところに道があったことすら知らない場所だった。
私が玄関の鍵を開けてしまったばかりにとんでもないことになってしまったのだと心臓を鷲掴みにされたようなバクバクとした罪悪感に襲われた。
帰宅した祖母は落ち込んでいるような、疲れているような、無気力でぐったりとした様子だった。「ごめんね、怖かったね、心配したよ」と声をかけたものの、私の頭は様々な思いがぐるぐると渦巻いた。自分が引き金を引いてしまったことに対する罪の意識や、閉じ込められていると感じる祖母の気持ちをどうすれば解放してやることができるのか、祖母と日に日に話が噛み合わなくなっていく恐怖。きっと祖母自身も自分の変化に恐怖を感じていたに違いなかった。
この時のことはいまだに思い出す度に苦しくて、介護の難しさを肌で実感する苦い記憶となっている。
それから祖母は縁あってグループホームだとかケアハウスだとかを転々とし、最終的に特養に入った。その頃には自分の娘によく似た私のことを本当に自分の娘だと勘違いすることも増えたし、孫の存在も少しずつ頭から抜けてしまったようだった。
祖母から忘れられてしまうというのは思春期の子どもにとっては受け入れ難いもので、その現実が腹落ちするまでは冷たく接してしまう日もあり、正直なところ、祖母に会うことに対して前向きに考えるにはかなり時間が必要だった。時間が経つにつれ、徐々に喜びのハードルが下がり、「認識してくれた」「話すことができた」「起きている時間に会えた」「寝ていたけれど話しかけられた」「手を握り返してくれた」と些細なことに焦点を当てられるようになった。
自転車をかっ飛ばして会いに行ったこともある。ちょうど今くらいの暑い季節で、青々とした田んぼに挟まれた道を細いタイヤで駆け抜けてホームへ向かったのだが、すっかりお昼寝の時間になっていて見慣れた祖母の寝顔をただ眺めて帰るだけの日もあった。
祖母は寝たきりになった頃に乳がんを患ったが進行が遅く、耐えうる体力もないとのことで手術はしなかった。その他にも心配事は絶えず、おかげで会う度にいつ亡くなってもおかしくないと覚悟ができたので、本当に亡くなってしまった時は素直に「長い間よく頑張ったね、ありがとう、お疲れ様」と声をかけることができた。祖母が認知症を発症してから17年。長い闘病生活だった。
滅多に見舞いにこなかった不義理な親戚はお葬式の席で嘘みたいな涙を流して参列者に「急なことでびっくりしています」なんて言っていたけれど、私は「ずっと覚悟していました。たくさん思い出があって、大往生だったんじゃないかなって。パワフルな祖母でした。」と伝えた。
実際、元気だった頃の祖母は文字通りパワフルで、戦争を逃げ切った彼女は平成の時代にかっこいいセダンを運転していたし、今風に言えば女子会にも積極的に参加していた。茶道もできるし、詩吟も上手だった。人当たりもよく、情熱に満ち溢れた人だった。ばあちゃんの作る卵焼きは最高に美味しかったし、一緒に観た暴れん坊将軍やはぐれ刑事純情派を目にすると放課後に祖父母の家で過ごした穏やかな時間を思い出すことができる。
私が家族で振り返る祖母は、弱った時の彼女ではなく、パワフルでお茶目で、たまにオラオラしているかっこいい祖母なのだ。
そんな祖母が残していた日記が出てきたらしい。
母から聞いた話によると、私たち家族と出かけられた日のことが記してあり、『嬉しかった』と書いてあったとのこと。
それを聞いた私は母と一緒においおい泣いた。
後日、その場にいなかった姉に話したときも一緒においおい泣いた。
一緒に外出することが彼女の体力を奪ってはいないか、彼女にとって面倒で煩わしいことになってはいないか。私たち家族はそれぞれがそういう不安を抱えながら、少し強引にでも休みの日には祖母と一緒に出かけるようにしていたのだ。
そんな不安な気持ちを数年後に払拭してくれた祖母の日記のたった数行の言葉が、どんな形式的な遺言よりも嬉しいもので、私たちの心を一瞬で救ってくれた。
この話に特にオチなんてないのだけれど、私が言葉を大切にしたい理由や日記をわずかでも日々つけている理由の一つだ。
ばあちゃんと一緒に過ごした時間があったこと。
みんなで一緒に悩んで闘った日々のこと。
その中に喜びが確かにあったということ。
そしてその事実が散り散りになった私たち家族を密かに結んでいることを、次回のお墓参りで感謝の気持ちとともに伝えようと思っている。
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