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〇〇年代

■〇〇年代とは

年代を実感するのはその年代の半ばになってからじゃないかなあ。と糸井重里氏は言っていました。

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これを見たのが2013年だからわたしは当時37歳の年です。その頃は30代も後半に差し掛かっていて、40代をどう生きようか、その為には次に何をするべきかを考えていたので、まあそんなものかもな?ぐらいな感覚でいました。

30代の頃は20代を総括して思い返すほど均一で何かを総括できるような共通点がなかったこともあったので、その時はこの糸井重里氏の言葉を深く噛みしめることはなかった気がします。

ただ、なぜかその言葉が脳の片隅に残っていたのですよね。45歳を生きる今、その言葉と共に40代ってどんなだろを考えてみたいと思います。

■30代後半から40代前半のこと

思い返せば30代半ばから40歳になるまでは、仕事をしていると夕方頃から目が霞んだり、背中や肩が痛くなったり、夜中の2時を過ぎて遊んでいると、翌日の体はまったく使い物にならなくなったり、年々、これまでの自分と現在の自分との体力差、ギャップを認識するようになっていました。

体力面以外では気力というものが減少してくのだなと感じていた時期で、以前のようにシャキっとしていたい。凛としていたい。細部までこだわりたい。目を行き届けたい。と思うようになり、今までできていたことが、意識的に過ごさないと、そうできないでいると思うようになっていました。これ、反対の表現にすると、どんどんユルフワになっていく自分が居たのですね。

また、それに抗うように筋トレをして気力を高めたり、美術館にいって感性を刺激してみたりしてみていた時期でもあります。代謝が衰えるからジムに行くという動機と共に気力を保ちたいという動機もあった気がします。

40歳を過ぎた頃、物事や人や環境の変化に柔軟に対応できるようになっていたし、偏った拘りみたいなものが減ってきて、生きやすくなってきたなと感じるようになっていました。これに乗じて今までの自分を一回全部捨てようと思ったのもこの頃で、髪の毛の分け目を左から右に変えてみたり、話し方を変えてみたり、一つ一つ変えていった時期でもあります。

合わせて、40代前半は男でいえば厄年(前厄/本厄/後厄)があって、そういうのを気にするタイプのわたしはとても慎重に生きすぎていて、心から楽しく生きている感じでもありませんでした。心の変化、体の変化に耳を傾けること、他者との関係を丁寧に持つことを一層心掛けていた時期でもあります。

30代からの延長で捉えていたことも、後厄の時期にはっきりと体力低下が認識できました。これはとても困りました。

1ヶ月のうちに最近ちょっと調子が良くないな。と感じる日が数日あるというこれまでの感覚から、後厄を境に体調変化が起きて、一週間のうち調子が良いなと感じる日が1日あるかないか。基本的に体が怠いとか、どこかが痛いとかがデフォルトになっていて調子が良い日、普通の日がマイノリティーとなっていました。(調子が良いという比較対象が20代、30代の普段の自分)

(これ、すごいよくわかる気がします)

わたしの場合、もともと体力がある方なので、落差があるといっても元気に見えるのかもしれないです。

若い頃、電車の中で疲れ切っているサラリーマンみたいにはなりたくないと思っていたけど、なんだか同じになってる。と同時に思うのは疲れ切っているのではなく、省エネモードで運行中なのだなと認識するようになりました。普通の日がマイノリティーになったとはいえ、年相応の経験値もあいまって、力を入れるところと抜くところのメリハリが上手く利かせられるようになっています。

わたし達おっさんサラリーマン、疲れてるんじゃなくてスイッチをオフにしてるんですよね。家に帰ってからオフにしろや。と思われるかもしれないけど、こまめにONとOFFを切り替えて一日が乗り切れる。そんな人が少なくないのではと思っております。

余談ですが、わたしは仕事に疲れてくると『浜田省吾 J.BOY』を聴きます。この曲を聴くと何故か頑張れるのは、わたし達の世代がどこかまだ、バブルの泡の虹色をこの目で追い求めているからなのかもしれません。

(話はつづきます)


■40代クライシスの話

この記事を読んで、そういえば同じような話を友人としたことあったなと思い40代からの話として続けてみます。

満員電車でおじさん同士が喧嘩をしているのをたまに見かけます。おじさん同士の喧嘩、若者とおじさんの喧嘩、満員電車に限っていえば、若者同士の喧嘩はあまり見かけたことがない。(おじさん。ここでいうおじさんの設定を40代からにしてみます)

おじさんになったのは5年前。おじさんが深まるにつれて思うことがあるとしたら、精神的な我慢、他人に合わせる、よい子でいるみたいなことに気が回らなくなってくるなと感じていること。

それは、もういいやろという感覚なのか、放っておいてくれという感覚なのか、それはどれも当てはまっているようだし、どれも当てはまっていないような感覚。人それぞれの中に眠っていた虎が抑えられなくて暴れ出すような感じでしょうか。

この記事によると、そういう感覚は「男性更年期障害」が原因の一つかもしれないとのことですが、今一ピンとこない自分がいる。

何年か前、わたしより少し年上の友人が「家庭でのあらゆる我慢を止めた、それぞれがそれぞれで好き勝手に生活すれば良いという考えに至った」と言い、この映画を観て欲しいとわたしに薦めてきました。心の中を上手く表現するならこんな感じに近いのだと言っていた。

そもそも友人の言っていることに少し共感できていた自分はこの映画を観てなるほどと思った。いろんなことが自分のコントロールでは及ばないこと。それを認めること、諦めてしまった時に全てが解き放たれるのだなと。会社や仕事では自分のやるべきことに対してコントロールできないことは当たり前のようにあり、外ではそれを受け入れている。翻って家庭の中では、ある程度子育てから解放された状態。子供が自我に目覚めてゆき、同じ家の中に忖度のない意思の塊が行き交っている。自分だけが家庭以外の世界と家庭内の世界の両方で我慢をしていると錯覚するのかな。

わたしにとっては少し共感できる部分があるなと思った。なんかもう我慢だけだとか、上手くいかないから頑張り続けるとか、絶対にこうあるべき、だとかそういうのじゃない。馬が合うとか、気が合うとか、ああそうだよね。っていうことの中でできるだけ生きていたい。そんな感覚が強くなっているなと思います。

■○○年代=45歳

やっとここで45歳、現在の話になります。

〇〇年代を実感するのはその年代の半ばになってから。ということですので、45歳になり40代を噛みしめているわけです。体力や気力の話、クライシスの話もしてきましたが、40代は総じて楽しいです。(わたしは今が一番楽しい)

蓄積された経験値とその出しどころが上手くなってきている感覚があって、必要以上に無駄な動きがなくなった気がします。その無駄な動きがなくなった余力と時間を「考える」ということに使えるので、「経験値×考える」から導き出された行動になります。このまま50代、60代へと進めるなら、いや、この感覚のまま20代に戻れたら人は最強なのだろうなと思えるような思考のコントロールができます。(できますというのは、過去の自分との対比)

いずれにせよ、ホルモンバランスなのか環境変化なのか両方なのかわからないけど、40代は大きく四つのことがありそうだなと思ってます。一つは体力変化やホルモンバランスの変化。二つ目は環境の変化。それらと同時に「経験値×考える」の総和が増えること、良くも悪くも環境変化に動じないということ。

不惑(ふわく)の40というけれど、もしかしてそういうのも含んでいるのかな?経験と知識から迷わなくなるという意味合いだけでなく、あらゆるもの、しがらみや窮屈なものを取り除いていくことで、楽になろうとして、楽になる。という意味合いも含んでいるのではと思ったのですよね。よくわからないけれど。

次は50代が見えてきますので、天命を知るのでしょうか。楽しみです。

■あとがき

一般化して語ってしまった部分が大いにあります。同年代や先輩方からそんなのじゃないってお叱りを受けるかもしれません。それぞれの40代がありますので、一つの例、感じ方だと思って頂ければ幸いです。

現在働いている職場は皆さん若い方が多くて、自分が30代だと錯覚しているときがチラホラあります。環境や仲間によって、感じられる時空は超えられるんだな。タイムマシンみたいですね。

この原文を書いてから時間は経過していて、歳をまた一つ重ねていこうとするタイミングです。改めて自分のこと、仕事のこと、日々の生活を見直す機会を持っています。

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