怒りが思い出せず、愛が失われたのではと怖くなった
水曜日、絵を描きにいった。
最近、EGAKUという創造性回復プログラムを通じて自分と向き合う時間を持とうと、毎月異なるテーマで内省し、絵を描く、連続10回のコースに定期的に通わせていただいている。
慌ただしい日常の中で、その3時間だけは完全集中し、自分の内側から湧きがってくるものをただただ眺めている。
テーマについて内省し、イメージを紙に落とし続けていたら、気づけばカラフルに染まった手と、作品が目の前にあるような、そんなフロー状態をもたらしてくれる呼吸の深い場だ。
今回、テーマは「怒り」だった。
ワークシートを前に一行目の問いから筆を進めることができなかった。
そんなことは初めてだった。
自分はどんなことに怒りを感じるか
思い出せない。
正確に言うと怒りの感情が内側に浮かんでこない。
いつもはこういう問いを投げかけられた時、過去の体験を追憶し、その時に感じた感情が少し彩度を落としてふつふつと内側に溢れ出してくる。いつもは。
全然、思い出せない。
自分本位な人は嫌い。
誰かの痛みに気付けない人も。
命を粗末にする人も、悲観的で甘ったれた人も嫌い。
震えるほど怒ったこともある。
けど、その時の記憶と感情がリンクしない。
困った。
絵が、描けない。
ワークシートを前に泣きそうだった。
遣る瀬無さが募る。
重石がのし掛かるようなずぅんとした気持ちになった。
怒りを思い出せないということは、私にとって衝撃であり恐怖でもあった。
怒れることは、愛せることだと思っているからだ。
こだわれること、譲れないことがあること、守りたいものがあること、とも言えるかもしれない。
怒りがないということは、私にとって、それがない。ということなのだ。
それがどうしようもなく悲しかった。
「怒ることがないということは平和な中で今過ごせているのかもね」
「幸せなことなのかも」
「優しい人なのかなと感じた」
プログラム中、様々なコメントをいただいた。
どれも今の私を肯定してくれて、とてもありがたかった。
けれど、私はやっぱり帰り道も悲しいままだった。
何とも言えない喪失感。
それが良いとか悪いとか、成長とか後退とか名前をつける気は今は更々ない。
ただ、哀しかったのである。
怒るほど何かを大切に出来ていない自分が。
まだ、この気持ちを味わっている。
なんとなく違うステージにいる気はする。
それ自体は、ああそうなのか。というくらいに受け止めている。
怒れることがどれだけ私のアイデンティティだったのかに気付かされた。
失ってみて、初めてそのことに気がついた。
いつかまた、怒りが湧いてきたときは懐かしさも同時に思い出すだろう。
気づきをくれたプログラムへの感謝と、かつて私をドライブしてくれた怒りへの追悼を込めて。
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