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善意がありがた迷惑にならないためには?バウンダリーを考える。

以前、仕事で夜にセミナーをしていたときのこと。その日はちょっとトラブルがあっていつもより遅くなってしまいました。とはいえ、電車はまだ動いていたので、いつも通り電車で帰るつもりでいました。

スタッフのある方が「今日は遅いので車で送りますよ。どうせ通り道ですから」と声をかけてくださり、言葉に甘えることにしました。

この善意は気持ちよく受け取ることができました。

別の時にも、同じように会場の片付けなどをしていて遅い時間に会場を出るということになりました。その日は私は車で行っていたので、電車とバスを乗り継いで帰るというスタッフ(上とは別の人)を送り届けようとお声がけしたところ、断られてしまいました。

仕事の後、遅い時間、電車とバスの本数も少ない中で、車で帰れた方が早く家には着けます。しかし、そのスタッフ断りました。周りも「送ってもらいなよ」という勧めがあったにも関わらず、「僕は電車で帰ります」と言って、駅に向かっていきました。

同じ状況でも善意なのか、そうでないのかは相手の受け取り方によります。どうも、断ったスタッフの方は他人に対して非常に気遣いをしてしまうということ。私だけでなく、他の人が車で送るとか一緒に行こうといっても一人で移動したがるようです。おそらく、少人数になると緊張してかえって気が休まらないのかもしれません。

多くの人が善意だ親切だと思う行為も、受け取る人にとっては迷惑になることがあります。ここを無理に飛び越えて、しまうと、バウンダリーを越えたということになります。

バウンダリーを越えてくる相手に対しては我慢して受け入れるか、NOと言って断るかしかありません。

どちらにしてもストレスがたまる行為ですし、エネルギーも使います。しかも、そのあと「あの対応で良かったのかな」と自問したりもします。

善意だからすべて良いことなのかというとそうではありません。それを善意と思っているのは本人だけで相手にすれば困ることにもなります。ありがた迷惑というのは、客観的には良いことであっても、本人にとっては困りごとになることを言うと考えられます。

大切なのは、どんな善意であっても提案であったり、依頼、お伺いを立てるというような、相手が意思表示できる余白があるようにすることが必要です。

バウンダリーを越えたコミュニケーションの特徴は、許可や合意が得られないまま話が進むことにあるからです。

互いに言いたいことを言えるという関係性は、互いが意思表示できるということ、(しかも緊張感なしに)で成立します。相手を尊重したコミュニケーションがバウンダリーを越えることを防ぐだけでなく、互いに信頼しあえる良い関係をもたらします。

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