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自分軸は本当に必要なのだろか?   コラム11

以前、ある方に「大久保さんはいろいろやられているけど、あなたの軸って何ですか?」と問われてうまく答えられなかったことがあります。

確かに自分の軸をもって一貫した歩みをしている人は格好いいなと思いました。そのことをよく考えるようにもなりましたし、自分でも言語化して、それっぽい言葉を自分の軸に据えてみようとしましたが、なかなかうまくいきません。しっくりこないのです。

そしていろいろ考えた結果、ありのままの自分を生きると決めたらそんなものはいらないんじゃないかなということを思うようになりました。

軸という言葉は、芯があるとか筋が通っているという感じがしていかにも力強いのです。一方の自分は軸なんて考えたこともなくて、信仰を持っていながらもブレブレで「なんて弱いんだと責めてしまう」ようなことになります。軸が本当に要るのかについて考えて、たぶんいらないという結論に至る理由を3つのポイントでお話しします。

1つ目は比較の自動思考についてです。「自分軸」をつと、その軸を人と比べてしまいます。ここに「比較」の自動思考が作用してしまいます。自分を責めたくなる大きな原因の一つが比較することです。何か、進むべき方向が明確で、一貫していて、パワフルに生きている人にあこがれます。そして、自分もそうなりたいと思ってみたり、そうじゃない自分を責めてみたりするわけですが、これらは比較の自動思考からくる自責のスパイラルです。

ありのままで生きるというときに、人との違いを知ること自体は悪くありませんが、比較して自分を責めることには意味がありません。比べて自分を責めていると思ったら「また比べてしまった」と気づきを入れる。すると、そこから比較も自責も意味がないという思いがはじまり、ネガティブな気持ちが弱まります。

2つめのポイントはブレを感じるというのは軸がある証拠でもあるということです。自分が目指す方向、信じる世界があるからブレを感じるのです。ブレを認識すると、他人と比較することなく、できていない自分を責めます。これが自分いじめとか、自分たたきになるのです。

ここで不思議なことが起きていることにお気づきでしょうか。自分でつくった何らかの「軸」から見て自分をたたいているということなのです。つまり、たたく側もたたかれる側も自分でつくり出しているのです。

自分をたたくような軸が本当に自分に必要なのか。実はその自問すること自体が責めにもつながるのです。そして、実はその軸が自分の「我」である可能性は大いにあります。そうすると、軸を捨てること=我を捨てることになり、真にありのままの自分を歩むことができる必要なプロセスなのかもしれません。

3つめのポイントは、軸なんていうものは、調子の良しあしで強まったり折れたりしているということです。ポイント2でも述べたように、それは所詮、自分の我から出たものです。人間の目から見て一貫性は、確かにかっこいいですし、成功者の印象を与えられます。

しかし、神様の目から見たら、誰の人生にも何らかの一貫性があるのです。軸の有無にこだわるというよりも、ありのままの自分を大切にするためには、何かを身につけたり、考えて頭にインプットするよりも、自分を責める素材となるものをどんどん捨てていく作業も必要なのではないでしょうか。自分を苦しめる軸を捨てて、祝福と平安にいたる、与えられた軸について思いを巡らしてみるのはいかがでしょうか。それは結果として与えられた人生の中にある、奥深い伏線を探り出すことになります。それは、あなたにだけ与えられた、人生のミステリーを読み解く魅力的な作業になります。

自分の軸があるからいいとかないからダメなんて言うことはありません。会えて軸を持つなら、ありのままの自分を大切にするという軸でしょうか。責めることは良くないと申しましたが、時に責めている自分に「責めたくなるよね」と共感を入れることも、自分を大切にすることにつながります。自分をたたく軸ではなく、ゆるしの軸を大切にしていきたいですね。

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