テッド

友情と恋愛は別次元

 友達のいない子が、クリスマスにクマのぬいぐるみをもらう。友達になりたいと願うと、ぬいぐるみが動いてしゃべるようになり、唯一の友達になる。しかし大人になって恋人ができると、主人公は恋人とクマの間で翻弄されることになる。

 主人公の悲しさが冒頭に描かれる。子どもの主人公は、ユダヤ人の子がみんなにボコられているところに顔を出して、みんなから罵声を浴びせられただけでなく、殴られているユダヤ人からも、あっちに行けと言われる。ブラックの効いた作風とはいえ、日本ではありえない差別風土に驚かされる。

 クマのぬいぐるみが動くようになったのは、祈る、という行為だけによる。宗教に対する意識も、日本との違いが感じられる。ぬいぐるみがしゃべって、見た目の可愛さに合わないろくでなしという設定だから、不思議が起きる理由に説得力は必要なく、むしろこのくらいあっさりしてた方が気にならなくていいのかもしれない。

 主人公は大人になってもパッとせず、仕事はレンタカー店の受付。恋人の同僚たちからもいささか見下されている。クマは、主人公と一緒に成長?し、麻薬を吸い、テレビで映画を見て、楽しく日々を過ごしている。「劇画オバQ」で、久しぶりに戻ってきたQちゃんがまだ子どもなのに、正ちゃんは大人になっていて、以前のようには一緒に過ごせなくなっているのと好対照だ。本作を考える対比軸としやすいのは「ドラえもん」だ。

「のび太の結婚前夜」で、のび太がしずかと結婚する時、まだドラえもんはのび太の友達のままでいる。この時までは、「帰ってきたドラえもん」でのび太が宣言した通り、ずっと一緒にいた。しかし、その後の大人になったのび太を、子どもののび太が訪れた際には、ドラの気配が感じられない。大人のび太は、近視まで治っていて、普通の大人になっていて、そばにドラはいなかった。のび太がもうドラの助けを必要としなくなっていたということだ。

ドラは、のび太が結婚したのを機に去った、と考えるのが妥当ではないか。ドラが去ったのは結婚直後が、しばらくしてからか、あるいは子どもが生まれてからか、そのタイミングは分からないが、いずれにしてものび太が結婚し、しずかという伴侶ができると、のび太のそばにドラの居場所はなくなったと解釈できる。

 クマと主人公も、二人でいる時は子どもの時と同じようにふざけていられるが、彼女がいるとそうもいかない。彼女は、クマか自分か、どっちをとるのかと迫ってくる。さらにこのクマは素行が悪いので、その面でも関係が悪化する。主人公は、恋人か友達か、二者択一を迫られるが、どちらか選ぶことはできない。選ぶことは捨てることでもあるからだ。

 クマは主人公の家を出て、アパートを借りてスーパーで働く。テレビで夢中になったヒーローの俳優と出会ったり、クマが誘拐されるアクションシーンがあったりして、ラストでクマの胴体がちぎれる。そして恋人が、クマが生き返るように祈って、またぬいぐるみが動くようになる。主人公は恋人と結婚してハッピーエンド。結婚式にクマは、スーパーで出会った女を同伴して出席した。

クマに支えられてなんとか生きていた主人公は、結婚する道を選んだ。一方のクマも自活し、スーパーの女と過ごせるようになった。結婚したからといって、主人公とクマは絶縁するわけではない。おそらくこれからも友達としてつきあい、支え合い続けるのだろう。

主人公が恋人に迫られた、クマと自分とどっちを選ぶの? という問いは、そもそもがナンセンスだった。友達と恋人は同列に扱えるものではない。土俵が違うのだから、どっちかを選んでどっちかを捨てるというものではなく、どっちも、でなんら問題なかった。設問を間違えると、いらぬ騒動を引き起こすことになるから、問題設定は慎重にしなければならない。

主人公が結婚してからも、クマとの友情が続き、クマはクマで伴侶を見つけている姿を見ると、ドラえもんものび太のもとを去ってから、未来の世界でいいネコを見つけているのかと思える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?