マネー・ピット

困った時は笑えばいい

 コメディと謳われていたけど、一度も笑えるところがなかった。コメディが笑えるという思い込みがおかしいのか、アメリカの笑いの基準が自分と異なるのか。

 主人公のトム・ハンクスは弁護士で、おそらくお金にそこそこ余裕がある。その彼女はオーケストラのバイオリニストで、こちらもおそらくセレブに類する。二人は結婚を前に家を買う。古いが豪華な邸宅で敷地も広い。持ち主の売り急ぎが嫌な予感をさせるが、二人は購入を決定。そして入居すると、お湯は出ないし床は抜ける、挙句に階段が崩れ落ちるという事態に見舞われる。

 このコメディの主眼は、オンボロの家に四苦八苦する二人のドタバタだ。ドリフのコントでボロい家の壁が倒れたり水が噴き出したりする、あの笑いだ。ドリフのコントは笑えるが、この映画で電子レンジが火を噴いたりしても笑えなかった。客観的に見る舞台と、自らを投影する映画の違いだろうか。

家の修理にてんてこまいの二人は、次第にイライラが募り、喧嘩して別れの危機を迎える。家が壊れるところまでは笑える余地があるが、人間関係が壊れるのはとても笑えない。途中までコメディと思えなくもなかったのは、音楽がコミカルだから。で、二人が喧嘩し始めて、音楽の雰囲気も変わると、とてもコメディと呼べるものではなくなった。

 コメディと銘打ちながら笑えないことはよくある。たいがい主人公が困った状況に追い込まれる。日本の喜劇も、ハナ肇のバカがいい例だと思うが、主人公が頑張れば頑張るほど空回りして、見ていて悲しくなってしまう。コメディとか喜劇とかいうのに、なんで悲しい?

 しかし考えてみれば、喜劇も悲劇も起きてることは同じだ。借金して買った家がオンボロで、修理しようとするとドリフみたいになる。そんな目に自分が遭ったら、とても笑ってはいられない。悲劇だ。でも、それが対岸の火事として傍観できる赤の他人だったなら、笑えてもおかしくない。コメディになりうる。もちろん、他人の不幸を蜜の味と感じる人には、優越理論を持ち出すまでもなく笑えるのだろう。

同じ災いも、当事者には悲劇となり、傍観者には喜劇となる。受け止め方次第だ。

 仏教では一切皆苦という。あらゆることが苦なのだと。この言葉を知った時、そんな世の中やってられないと思った。仏教はなんて悲しい宗教なのかと思った。でも考えてみれば、どんな出来事も苦になりうる。出来事は単に何かしらが起きただけで、それが苦か喜かの価値判断は、その人の心次第だ。出来事自体にプラスマイナスはない。事実をありのままに見つめることから、次にすべき行動が立ち現れてくる、というのが仏の教えだと知った時、2500年続く宗教はたいしたものだと思えた。

 この作品は、最後は二人が結婚してハッピーエンド。そこに至るまでには、二週間で終わると言われた修理が何か月もかかったり、階段ができて一安心と思ったら、彼女の元カレとの騒動が持ち上がったりと、上がったり下がったり。まさに禍福はあざなえる縄の如し。いいことが悪いことを招き、悪いことの次にはいいことが起きる。

しかし、そんないい悪いは、結局は自分の都合で価値判断しているだけのことだ。大枚はたいて買った家が不良品であっても、その状況を客観視して笑ってしまえば悲劇が喜劇に変わる。つらい時に自分を俯瞰するなんて、なかなかできることではないが、悲劇に見舞われた時こそ、自分をスクリーンの主人公と見て、その状況をコメディと銘打って笑い飛ばしたい。


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