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北の丸公園の子犬

 よく晴れた初夏の休日、わたしと彰人は北の丸公園の池のほとりを散策していた。
 青空には鰐の大群が重なり合っているような雲が浮かび、乾いた土と新緑の香りを運ぶそよ風が吹いていた。
 わたしたちは手を繋いだり離したりしながら、蘆のような鋭い雑草をよけて水の中を覗き込み、のびのびした気分で歩いていた。彰人も心地よさそうに、生い茂る木々のさらに遠くを眺めていた。
 すると、遊歩道の方から、白くてころころとした子犬が駆けてきた。
 楽しさや喜びをめいいっぱい振り撒くように、足を縺れさせながらぴょんぴょんと撥ねてきた。まだ短い尾を振りながら、わたしたちの足元までやってきた。
 期待に満ちた表情で、無邪気にわたしたちを見上げるので、わたしはしゃがんで、子犬の首周りをがしがし撫ぜ回した。
 子犬はさらに喜んで、飛び跳ねながら、わたしの手を舐めた。
 飼い主に可愛がられているんだろうな、と、思った。上品なピンク色のハーネスをつけていた。
「きみはどこの子?」
 すこし乱暴に撫ぜくりながら、わたしはきいた。子犬ははしゃいでぐるぐる回った。
 彰人は、急に機嫌が悪くなり、
「犬を放し飼いにしたらだめだろ。いい加減な飼い主だな。どこで何やってるんだ」
と、周囲を見渡した。
 わたしも顔を上げて飼い主を探したが、手にしているはずのリードを携えている人間は、見当たらなかった。
「無責任だな。そんな犬いいから、行こう」
と、彰人はさっさと歩きだした。
 そういえば彰人は、以前「飼い慣らされた動物は嫌いだ」と言っていた。わたしは子犬を残して、慌てて後を追った。
 そのあとも彰人は、わたしにかまわず前のめりに歩きながら、くどくどと文句を言い続けていた。
「犬はリードで繋いでないとだめだろ。法律でもそう決まってなかったか? まだ小さいからいいと思ってるんだろうけど、絶対に誰も傷つけないとは限らないだろ。遊び半分で赤ん坊に飛びかかるかもしれないし、その辺にフンでもして、こどもがそれを触るかもしれない」
 などなどと、怒りが収まらないようだった。彰人と付き合うようになって二年半以上になるが、こんなに感情的になられたことがなかった。人間に懐いている子犬がそこまで気にくわないのかと、呆気にとられた。

 ずんずんと足を速める彰人を追って、靖国通りを神保町の方へと向かった。 
「彰人、ちょっと、待って。どこかカフェでも入ろうよ」
 わたしは彰人をいなし、脇道に入って、カフェというより喫茶店という外観の店へ入った。
 インテリアも昭和のままの店で、わたしたちは席についてメニューを手に取った。
 わたしは、
「ホットケーキセットにしようかな」
と、呟いた。
 彰人が突然、激昂した。
「ダイエットしてるって言ってたよね? それで何でそういう物、食べるわけ? 意思弱すぎだろ」
「いや、そのぶん夕食抜くから」
 わたしはむっとして、突っかかるように言った。
「そんな食生活は不健康だろ。そんな言い訳ばっかりしてるから、あんたはいつも物事がうまくいかなくなるんだ。そんな甘い考えだから、しょっちゅう問題を抱え込むはめになるんだ」
 彰人は大きな声をあげた。わたしたちの会話は、店内のお客に筒抜けだ。
 わたしは仕事も人間関係も、概ねうまくやれている。問題が起きてもストレスが溜まっても、いつも自分でなんとか解決してきたし、これからもそうするだろう。それこそ、愚痴ばかりこぼして実行力の乏しい、どこか他力本願な彰人とは違う。
「じゃあ、ホットケーキ注文しないから、ドリンクだけ頼んで、早く飲んで帰ろう」
 わたしは彰人から視線を逸らせて、声を絞り出した。喉の奥から出てきた声は、自分でも意外なほど冷淡で低い声だった。

 胃の中にゴロゴロする石が詰まっているようだった。帰宅するために地下鉄に乗っているあいだも、お腹に溜まっている石の感触は消えなかった。こんな不快な気分にさせた彰人に腹が立っていた。

 神保町で彰人と別れてから、お互いに連絡を取らなかった。わたしは本来の業務に事務処理的な仕事が立て込んで、彰人のことを考えている余裕がなかった。      
 LINEも電話もせず、一週間が過ぎようとしていた。
 土曜日の夜、彰人に連絡をしようとして、ためらった。
 先週、北の丸公園で、彰人が子犬と遊ぶわたしを置いてけぼりにしようとしたこと、「いつも物事がうまくいかない」「考えが甘いから、問題を抱え込む」などと、彰人に叱責されたことを、生々しく思い出した。彰人はわたしのことを、そういう風に見ていたのかと思うと、先週と同じように不愉快になった。
 
 また一週間が過ぎ、日曜日に彰人からLINEがきた。
 
「このままフェイドアウトになってもいいの? どうするつもりでいるわけ?」

 わたしは何度もその文面を読んだ。わたしはどうしたいのか、自分でもわからなかった。
 結局、その質問には答えなかった。こちらから言うべき言葉も思いつかなかった。

 日々慌ただしく暮らしていると、どんどん彰人から気持ちが離れていった。思い出すこともめったになかった。
 まれに、わたしが好きだった彰人の表情――安心してくつろいだ、内気そうな微笑――が思い出されても、月面に現れる影を眺めるように遠くに感じ、恋とか愛とかいう情が湧かなかった。それに、繁忙期でもないのに、この期間、仕事がものすごく忙しかったのだ。

 それから三ヶ月が経過した。
 わたしの仕事の量も通常通りになっていて、改めて彰人のことを考えた。
 やり直したいとは思わなかった。相手にとっても、もう終わったことになってるかもしれなかった。
 それでも、曖昧にしておくのも、濡れた服がいつまでも体にへばりついているようで鬱陶しいので、けじめをつけることにした。

 最後に二人で北の丸公園に行ってから、十二週間が経っていた。土曜日の夜半、わたしは彰人に電話をかけた。
 彰人はすぐに電話に出た。
 わたしは、
「もうあなたに気持ちがない。元に戻ることはないだろうし、あなたもすでに、わたしとは別れたつもりでいるかもしれない。だから、このまま別れようね」
というような内容の話を、業務連絡のように、ほとんど一方的に告げた。
 彰人は、冷ややかに、
「そういう話だと思った。残念だけど、おれたち相性が悪かったんだよ。いろんな面で」
と、ぼそぼそと言った。
「相性ねえ……」 
 わたしは違和感を覚えた。
「あの時、子犬がこっちに来なければ、まだ付き合ってたかもね」
 わたしはすこし笑った。
「犬?」
 彰人は、怪訝そうに繰り返した。
「ほら、北の丸公園で、わたしが白い子犬をかまってたら、彰人が機嫌悪くなっちゃってさ」
「え、わかんない」
 彰人はつっけんどんな口調で言った。
「犬がなんなわけ」
 うっすらと怒りを帯びた、厳しい声色だった。
「覚えてない? あのまるまるした白い子犬が、わたしたちのほうに走ってきて……ピンクのハーネスの……」
 わたしの言葉が曖昧に途切れると、耳の奥に変な音が聞こえてきそうな、醒めた沈黙が流れた。
 彰人は、スマホの向こうで黙り込んでいた。息をしている気配さえなかった。
 彰人は嘘をついているわけでも、あの日のことを誤魔化そうとしているわけでもないようだった。どういうわけか、本当に子犬の記憶がないようなのだ。
 わたしは空白の箱の中を、目を凝らして見つめているような気分になった。そこにあるはずのものが見えない。
 沈黙が続くのが怖くなり、慌てて、
「あ、いいの。たいしたことじゃないから」
と言葉を継いだ。
 彰人は、
「そう、それじゃ」
と、会話を断ち切ろうとした。
 手短に、しらじらしい別れの言葉を言い交わすと、彰人は投げやりに電話を切った。
 わたしは、これで、彰人を失った。もう、取り戻せない。胸が押しつぶされそうで、スマホを握り締めた。
 もし、北の丸公園で、子犬が走って来なければ。もし、わたしが子犬と遊ばなければ。いや、そもそも、あの日、わたしたちが北の丸公園に行かなければ、わたしは彰人と別れなくてすんだのかもしれない。
 彰人はちょっとだめな所もあったけど、わたしはあの人が好きだった。欠点すらも可愛く思えていた。
 みるみるうちに潮位がせりあがるように、「好きだ」という想いが溢れてきた。「好きだった」という記憶や感情がこみあげて、奔流のように波打ち、わたしの体の内で渦を巻いた。動悸が激しくなった。
 わたしは目を固く瞑って俯いた。大粒の涙が目頭から鼻先へ流れ、湿った音をたてて膝に落ちた。ぽとぽとと、滴る涙が止まらなかった。

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