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リンパ腫治療完了したけど、「キャンサーギフト」という言葉は嫌い

こんにちは、にこらにこらい(@nico_ALCL)と申します。
2019年11月に血液のガンであるリンパ腫と診断され、2020年5月に治療がひと段落しました。闘病中のあれこれを漫画にしています。

治療中に「キャンサーギフト(ガンからの贈り物)」という言葉を知り、ずっとモヤモヤした気持ちがあったのですが、そのモヤモヤの原因が分かった気がしたので、ここにメモを残します。

あ、念のために、「キャンサーギフト」の考え方を否定するわけではありません。単純に「私はちょっとモヤるよ!」という話です。

キャンサーギフトとは

「キャンサーギフト(ガンからの贈り物)」とは「ガンを経験したからこそ得られるもの」という意味だそうです。
最初に言われたとき、意味は理解できました。しかし違和感もありました。「こんなにうれしくないギフトってないよな!」

ガンは辛いです。
人生の時間が残り少ないんじゃないかという焦り、経済的な負担、それまで自分が属していたはずの「普通の人であること」からの疎外感、痛い、苦しい、気持ち悪い、肉体的な苦痛。治療が終わっても再発の不安はついて回るでしょう。
得たものと被った苦痛を天秤にかけると、「ギフト」という言葉には釣り合わない苦痛だと思います。

得たもの。まあ、ガンの経験から得たものも確かにあります。一方で、「これってキャンサーギフトなの?」という疑問もあります。なぜそう思うかは後述するので、まずは得たものを見てみましょう。

命は有限だと思い出した

ガンの告知を受けたときに、最初に思ったことは「まだ死にたくない」でした。待って、私はまだ命を十分に楽しんでいない。

命の期限がチラ見えした時には、不思議とやりたいことがどんどん湧いてきます。あれをやりたい、食べたい、見たい聞きたい嗅ぎたい触れたい、知りたい。
そうするための時間は自分に一体どれほど残されているのだろうかと考ると、それまで気にしていた周りの評価や見栄がどうでもよくなりました。

人はいつか必ず死にます。いつ、どんな理由で死ぬかもわかりません。いつかやりたいと思っていたことができないまま、この世を去るという可能性もあります。
やりたいことは生きているうちにやるべきだと思いました。

自分を愛せた

子供の頃から頭の悪い自分を嫌い、無価値感に苦しんでいました。10代終わりから20代のほとんどは「理想ほど賢くない自分を愛するため」にたくさんの時間と気力とお金を使いました。

もっと努力すれば、もっと勉強すれば、もっと上手に立ち回れれば。
もうちょっとで「なりたい私」になれるんじゃないかと期待してがっかりすることを繰り返していましたが、人生の残り時間に目を向けたときに「なりたい私」は消し飛びました。

今の私はこれまでの成長と努力の結果であり、同時に成長し、努力している過程でもあります。何かを成すことだけが成長、努力ではありません。抗ガン剤で辛くて、布団から起き上がれずに何もできない日でも、命をつないでいるという意味では成長し、努力しているように、生きている限りこの過程は続きます。

だったら、生きているだけで私は素晴らしい存在ではないか。

なんだかんだ言って、私はこの世界を愛しているのだと思います。
この世界は完璧ではないし、悲しいことや醜いものはあります。それでも、美しいモノ、目を開かせてくれるモノ、もう一度食べたいあの味、結末を知りたい物語、何度でも会って話したい人、そういうモノも存在します。そして、素敵なこの世界に触れられるのは、私が生きているからこそです。

私は「私」という存在を通してしかこの世界を知ることができません。この世界を愛せるなら、この世界へのインターフェースである私自身をも愛せるのです。

ケンカ別れした両親と和解した

なんでケンカ別れしたのかはこちらの漫画で。

調べてみると、私のガンの5年後生存率は50%だそうです。
5年後に自分は死んでいるかもしれないなら、両親と話をしようと思いました。人を憎んだまま死にたくなかったのかもしれません。あるいは、遠からずこの世を去ると思うと、この世での憎しみや確執が小さく見えたのかもしれません。

念のために、両親に連絡する前日に、再びケンカ別れしたときのためのカウンセリングを予約して、おいしそうなプリンを買っておきました。

結局、両親とは和解しました。彼らは過去のことについて私に謝り、私も彼らを許すことができました。許すというか、良い意味で「もういい」と思えたのです。
過去に良かれと思ってやったことが娘を傷つけていたと認識して謝った両親、過去に傷ついたことを見つめながら、両親はそういう人だったのだと理解してこだわることをやめた私、そして関係修復が始まったこと。これはただもう、奇跡です。

これはキャンサーギフトなの?

うん、自分で書いててなんですが、素敵ですね。
さて、これは「キャンサーギフト」なのでしょうか?
ガンになって命には期限があることを思い出し、自分を愛せるようになり、許すことを学んだ。

そもそも人生って、こういうものなんじゃないのか。

人はいつか死にます。私も、あなたも。
ガンであってもなくても、明日自分が生きているかどうか、確かな人はいません。
私はガンの告知を受けることによって、そのことを前よりはっきりと、自分に近いことだと思えるようになったに過ぎません。

死を意識することは、人生の総決算を迫ってきます。
総決算の仕方は人によって様々です。たまたま私は、「限りある時間の中で人生を楽しみたい。この世界は素晴らしく、この世界の素晴らしさを知れる私も素晴らしい。とりあえず目下抱えている家族への憎しみを何とかしよう」という結論に至ったというだけです。

どんな立場にいても、それぞれの課題があって、人生のどの局面でも、それぞれの喜びと苦しみはついて回るでしょう。一つ課題を片付けたそばから次の課題がやってきます。私の場合、和解した家族と心地よい関係を維持していくことが目下の課題です。治療ひと段落したし、社会復帰もしなきゃね。こういう課題の一つ一つを解決できたり、できなかったりしながら人生は続くと思うのです。

であれば、「ガンを経験したからこそ得られるもの」なんて一つもないのです。私がこの記事に書いたようなできごとは、形を変えてあなたの人生にも訪れるでしょう。あなたも私も、それぞれの人生で喜びと苦しみを味わい、それぞれのやり方とタイミングで人生の課題を解決できたりできなかったりして、やがてはこの世を去るのですから。

身近にガンになった人がいる方へ

身近にガンになった人がいると、どう言葉をかけたらいいのか迷われる方もいらっしゃると思います。
私の経験からアドバイスをすると、「その人が使っている言葉を使う」というのが良いのではないでしょうか。

その人が「キャンサーギフトだよ」と言えば「キャンサーギフトだね」と言い、「辛い」と言えば「辛いね」と言い、何も言わなければ静かに側にいてあげればよいのです。
励ましや慰めの言葉が不要な時もあります。「大丈夫だから泣くな」と言われたときには、辛い気持ちを呑み込むしかなくて、かえって辛い思いをしたこともありました。

悲嘆の五段階(Wikipedia)というものがあります。死や喪失に直面した時、人の心は様々な段階を踏んで変化していくそうです。前の段階に戻ったり、一段階飛ばして進むこともあり、数日安定していても急に変わったり、一日の中で気分が上下することもあって本人も混乱します。安易な慰めの言葉より、いつも通りにふるまってくれることや、ただ側にいてくれることが慰めになることもあります。

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