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一日一首

今日の気づきで、一首

学ぶとはまねることだと諭しつつ、まねるとは愛することだと気づいた日

【蛇足】
本日は2週間ぶりに部活に顔を出しました。自分の稽古というよりは後輩たちの指導が主目的です。

私の出身部活は武道系の部活で、今は西日本大会団体戦優勝を目指して頑張っています。

私自身も大学4年間は部活動にささげたと言って過言ではないです。いろいろありすぎて、最後まで私は自分の部活を憎んでいました。そして今も。(この武道自体は好きですし、一生続けていきます。)

なのになぜ未だに部活動に関わり続けているのかと言うと、それはこの部活を許せないからだと思っていました。部活の在り方が、許せず、あまりにも悲しいと思うからこそ、現状よりも少しでもよりよくしたいと思っています。怒りは私のエンジンで、悲しみは私の友人です。これまでも、そしてこれからもそうでしょう。

ですが、今日、自分の中に、もう一つ別の気持ちが芽生えていることにも気づきました。武道ではよく、高段者のやっていることをまねろ、と言われます。自分よりもはるかに上手な存在が何をやっているのかをつぶさに観察し、それをまねるところからすべてがスタートするのです。ゴールが先に提示されるので、到達するための道筋は自らで見つけ出す必要があります。達人は常に最良の結果のみを示し、凡人は提示され続ける結果から自分なりに必死で「ナニカ」を得ようとしなければなりません。それをし続けるために必要なものは、おそらく「愛」なんだろうな、とおもいました。武道そのものに対する愛、師匠に対する愛、身体への愛、etc‥‥。それ自体を愛して、そして誠実に向き合おうとし、そこから可能な限り多くの情報を、なるべく劣化させずに吸収しようとする…。そのサイクルが稽古で、そして私はそれ自体を愛しているのです。

そしてまた、後輩たちにもこうしてほしいと思っている。なぜなら私は後輩を愛しているから。同じ部活に所属したよしみで、この武道を通して何か良いものを得てほしいと思っている自分がおり、そしてだからこそ、自分なりの理想の状況にはなっていない部活に対して怒りと悲しみを抱いているのだと気づきました。

多分後輩たちからすれば、勝手に愛情を押し付けるはた迷惑な先輩だと思います(笑)事実そうでしょう。自分たちは好きにやりたいのに、横から口やかましく「それはちがう」という上の人間は、目の上のたん瘤でしかないはず。そして後輩たちにとって異物であるようでは、私の本懐も遂げることができません。

「愛」に関して私の目下のテーマは、いかに「独りよがり」の愛にならないか、です。これに関しても答えが見つかったら、歌にできたらいいな、と思っています。

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