見出し画像

偽善者になるな。「嫌な奴」の自分のままで良い ~マインドフルネスのすすめ ★第二夜★

マインドフルネス、瞑想、禅と聞くと、現実の役にも立たないのに、中身空っぽな偽善的な笑みを浮かべるような状態になるんでしょ?みたいに思われること、ありませんか?
私自身がそうでした(笑)。

確かに、金銭的に困窮しているなど、現実で今解決しなければいけない問題を抱えていると、そんなことじゃない!と言いたくなる気持ちはとても分かります。

ですが、私自身やってみて分かったのですが、今解決しなければいけないことがある時こそ、瞑想や少なくとも呼吸に集中することは役に立ちます。
マインドフルネスが目指すことは、現実を乗り越えるしなやかで明るい心を育むことですので。

或いは、禅や瞑想みたいなことをすると、胡散臭い宗教に引っかかった信者みたいな空っぽな笑みを浮かべる偽善者になるのではといった思い込み(私のそれこそと思い込みイメージです笑)。
私自身は相変わらず嫌なところは嫌な奴のままですし、特に根本が何か変わったようには思いません。
むしろ、自身で性格悪いなーとか、わがままだよなあと自身で思う人ほど、効果絶大です。
そもそも、自身のことを常識的で良い奴だなんて思ってる人って、傲慢で独善的で不快な人物に思えませんか?
そう見られる可能性もあることに気付くだけの想像力がないこと。そういう人には瞑想の効果も薄れるように思います。

とにかく。今回は、そんな思い込み(があるに違いないと私が思い込んでる思い込み)を少しでも解消するべく、「偽善者になるな」と敢えて銘打ってお話しようかと思います。

マインドフルネスとは偽善者とは真逆の状態のこと

ある事実をとっても、その事実の解釈は人それぞれ千差万別です。
人の性格にしても同じこと。
例えば、待ち合わせ時間の5分前にはいつも到着する人がいるとします。
ある人は、その人を「しっかりしてる」と言い、またある人は「几帳面すぎて、疲れそう」と言います。
事実に意味を持たせるのは人であり、人に関わることは所詮それぞれが真実と思うことを見ているに過ぎません。

自分のことを受容するとは、そういった解釈を交えず、そういうものなのだと理解し、受け入れることを意味します。
感情的な話にしろ、自分はこういう時にこう感じるんだなと、そのパターンをそのまま良し悪し判断せず、或いは他人にどう言われたを考えることなく、ただ受け入れます。

だから自分のことを嫌な奴かもと思っている人に限って、瞑想をすることで心がほっとするのを感じることが出来ます。嫌な奴で良いじゃないと、ふっと肩の力が抜け、諦めがつくのです。まあ、法律違反になるような害を他人に及ぼすほどの「嫌な奴」はダメですが。それはまた別の話です。

偽善者というのは、独善的とも言えますし、良いというのがこういうものであると決めつけている、良いを定義してしまっているともとれます。
そうして、自分は良い人、正しいと思い込むのです。
しかし、これは、あるがままを受け入れる状態とは実は正反対の状態。
瞑想を始めると、良い人でなきゃいけないという焦りや強迫観念から自由になり、まずは自分を良い悪い決めず受け入れようと思えるようになります。
なんというのか、イライラすることがあっても、心は落ち着いているという不思議な感覚を体験できます。

過度、極端を脱し、中庸を知る。
それがマインドフルネスや瞑想の目指す先です。

受け入れる≠怠惰になる

怠惰

ここでいう、「怠惰になる」には色々な意味がありまして。
自分に"過度に"甘くなるや、面倒なことを考えるのをやめるなど、対処しなきゃいけない現実から都合の良く目を背けることを指しています。

私は瞑想などを始める前、瞑想とか推奨してる人々や教祖←ってクスリでラリってるみたいなイメージと、大変失礼なことを思っていました。
いや、失礼がすぎるだろ(笑)と、自分でも思いますけど。
なんか欧米人のカウンセリング大好き、集団セラピー大好きとか、おくすりでハイになれる人らは違うぜとか思ってました(まだ言うか)。

しかしですね。ラリってしまうのと、瞑想であるがままを受け入れて、心落ち着くのとでは全く異なります。いや、そんなん言われんでも普通分かるわ!って?……(´・ω・`)。
前者が究極の逃げ、心をなくすことだとすると、瞑想は心を取り戻し、あるいは心のあり方を理解し、現実というストレスに自分なりに対処できるようになることと言えます。

まずは呼吸から。呼吸に集中し、自分は今生きているんだと実感。そうすると、自ずと内から白も黒もない温かさを感じられるようになります。
そこから、想像力を使うことで、自分、あるいは心という実体のないものをより豊かにしていきます。
そこで軽く、体という実体あるものも動かして意識をしていくと、心と体が調和し、本当にしなやかに伸びる芯の強い高い木のように、少しのストレス、ざわめく風も受け止め、流せる自分へとなっていけるのです。

心身のバランスが取れた状態にするのは、瞑想よりヨガの目指す先に思います。が、ヨガって体が堅かったり、筋肉よわよわ生物からすると、動きが結構キツイんですよね。
だから、ヨガを本当に理解している人ではなく、私ポーズ出来るんですとそこでイキってる人は(競技系の有酸素運動苦手そうな奴に限ってのイメージ←)、往々にしてヨガの心を忘れてしまっていることが多い印象です。(※ただの個人的偏見です)

いずれにせよ、マインドフルネスとはストレスに対処できる心になること。その最初の過程に自分を受け入れることがあるというだけで、対処すべき現実がある時に現実というストレスから目を背けてしまっては本末転倒になるということです。

焦らなくて大丈夫

画像2

瞑想というか呼吸に意識を向けるだけでも、心は本当に楽になります。
ですから、瞑想を始めたての内は、特に私のようにイラちな人だと「何で心は落ち着いてるのに、イラっとするんだろう」「何でまだ怒りっぽいままなの?」と、結果がすぐ出ないことに焦りや苛立ち、そして瞑想自体への疑念を覚えることもままあるかと思います。

まずは、「それはよくあること」と思い、「出来ない」とご自身を責めるのをやめてみましょう。
自分を知るというのはそんな簡単なことではありません。嫌だなと感じる自分も理解しつつ、それでも周りをありのまま受け入れ、ゆっくりと焦らず対処していくというのは、マインドフルネスの至極の形だと思います。
至極の形ですから、一回や二回、あるいは数回やっただけで到達できないのは当たり前なのです。

瞑想は何度も何度も繰り返し、自分と対話を繰り返す内に、ゆっくりと自分を許し、調整していけるようになるものだと個人的には考えています。
性格改善やアンガーコントロールなども一両日で成し遂げられるものではない通り、時間はかかるもの。
ですので、できない!何も変わらない!と焦ることなく、まずは呼吸を感じる心地良さを知るだけでも良いので、ぜひ毎日呼吸に集中するということをやっていければなと思います。

或いは、イライラッと来た時、怒り出しそうな時、孤独さに過度に悲しみを感じそうな時。
ひと息ついてみましょう。
お客様の相手をするお仕事の方で、言われ過ぎて辛くなりそうな時。大きくひと息ついてみましょう。
それだけで、少しとはいえ、心が落ち着くのを感じられます。
ちなみに、自分が落ち着くことで、相手のペースをこちらに引き寄せることもできるというおまけが付いてきます。
これは瞑想とは関係ないお話ですけど(笑)。

誰かに話すことの意味

会話

そうは言っても、なかなかひと息入れられないのが人というもの。
そもそも、「今怒り出すな自分」「これは落ち着かなきゃ」と気付ける時点で、かなり冷静になれているとも言えますし。
それに、仮にひと息入れられたとしても、特に訳もなく孤独を感じるなど、理由が何か分からない感情、思考傾向というのは、ご自分だけで対処するのは難しいかと思います。
理由や性格の根源が分かれば対処出来る。
でも、分からなければ、対処しようがありません。
ですから、そういった時には人に助けてもらうのも良いかと思います。

思いの丈を話せる誰かがいれば、その人にとにかく話を聞いてもらう。
もっと良いのは、話を聞くのが上手い人やカウンセラーなどに相談し、話を聞いてもらうというより話を引き出してもらい、自分の抱える思考傾向的課題のルーツを知ることです。

カウンセラーというと、心の病の人が利用するものと日本では思われがちですが。
海外では、心理カウンセラーは特に成功している誰もが利用している日常的存在です。
米Facebookは、ファシリテーターとして、実質心理カウンセラー+壁打ち相手的存在を必ず置いているとのこと。
心理カウンセラーやそれに近しい話を聞く人を利用することは恥ずかしいことではなく、自分の能力を最大限引き出すのにも役立つということです。

人は誰しも、一人では心すらままならない、弱い生き物です。
心の弱い奴はダメだ!なんていう合理性のかけらもない精神論は過去のもの。自分だけが弱いと恥じる必要はないです。
日本もカウンセラーという存在がもっと身近になれば良いなあと祈っています。

さて。話がずれましたが、心理カウンセラーに相談するのはちょっとという方。
個人がやってる愚痴聞き、相談相手などを利用するのでも大丈夫です。
話を聞いてもらうだけでも、大分心は楽になります。
また対話を通して、自分を説明しようとすることで、他人から見た自分や自分が思う自分も徐々に理解できるようになります。自分を知るのに対話は非常に有効です。

僭越ながら、私自身、お話を聞いて、少し一緒にストレッチや呼吸練習をするサービスをココナラで展開しています。(結局宣伝かよ!)

そんな感じの個人がやってるレベルのものでも、とにかく利用して「対話すること」も、ストレスを感じ易い状態を根本的に解決するには効果的です。

まとめ

ありのままで

瞑想は、究極的には自身の魂という命そのものと現実という具現化された実存とのバランスをとることを目標としているように思います。まずは呼吸に意識を向けることで、自分の命があることそのものに気づきと感謝をもたらします。そうすることで、心は自然とリラックスします。リラックスすると、現実に対処する力も湧きます。アイディアが自然と浮かんできます。

瞑想をただの空想や空想世界への逃避だと考えると、「現実に困難があるのに、気持ち良くなってどうする」と否定したくなるもの。
でも、気持ちよくなることは悪いことでしょうか?
しんどい現実の中、少しだけ息を吐いて、対処する心の活力を得るのが瞑想のまず第一の役割です。

あるいは、心は気持ちよくなってきたのに、人に対して優しくなれない、完璧な自分になれないと焦るでしょうか?
完璧な人なんていません。完璧を求める必要はどこにもありません。ありえない完璧を演じる偽善者になることが瞑想の目指す先ではありません。

かといって、完璧じゃない自分を受け入れることと、他人が傷つくことも気にせず自分が思うようにやることとも異なります。
何事も過度は良くありません。人を傷つけた、悲しませたと感じるから、完璧になりたいと思うのかもしれません。

完璧になりたいと自分を責めるのは、心に歪なところがあると気づけた証。
バランスが良い心というのは球体に近く、尖ったところがないイメージを持つと分かり易いかもしれません。
歪に気づけただけでも、大きな一歩。そこから、ゆっくりと、人との対話や瞑想を繰り返し、調律していけば良いだけ。

瞑想が目指す先は、現実と理想のバランスが取れた丸い心になること。
ありのままの自分を受け入れ、ゆっくりと尖った部分を丸く丸くしていきましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?