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山を歩く

いちほ、というのは私の犬の名だ。
赤毛をなびかせて走る姿が美しい、アイリッシュセッターという犬種。
体重は30kgほどあり、立派な大型犬だ。

いちほの赤毛のからだに顏をうずめる。
ふわふわと柔らかい毛が顏にそよそよと触れてとても気持ちがいい。
からだを丸めて寝ているときは、下腹から下肢の付け根のくぼみあたりが最高だ。
毛の肌触りのよさに加えて、ぽてぽてのお肉感も楽しめる。
とくとくと心臓の音が聞こえてその度に、「このまま長生きしろよ」とそう思う。

今日のいちほは、いい匂いがする。
耳の後ろに鼻を近づけて、胸いっぱいに吸い込むと、はあ、何ともたまらない。
山の香り。森の香り。土の香り。
からだじゅうに、自然の匂いをまとわせている。

午前中は、いちほと一緒に山へのぼった。
これらの匂いは、そのときに浴びてきたものだ。
青青とした森の湿気、土くささ、温かな木洩れ陽、花の香、朽ちた葉にすまう微小な生き物の呼気や、もっと大きなだれかほかの獣の匂い。
いちほは山を駆け回る。
そして、「おいで」と呼べば、それらたくさんの香りを身にまとって満足顔で戻ってくる。

山を歩くのは好きだ。
もくもくと、のぼるのがいい。
斜度はゆるくてもいいし、きつくてもいい。
むしろいい塩梅にどちらもあると歩き甲斐があって刺激的だ。
下半身にじんわりと疲労が蓄積されていくのが好きだし、
足の裏と重心に注意が向けているうちに自然と肚に力が備わってくる感じもいい。
登っているうちにもちろん息は切れるのだけど、それも喜んでいる自分がいる。
負荷があることで、文字通り「肉の体」を意識できてくることが楽しいのだと思う。
そうしていると、頭の中がぽっかり何も考えなくてよくなる。
心の中も捨ておいて、ただただハァハァ息をととのえながら進む。
カッコ悪い自分の息遣いを聞く。これがいいのだ。

山登りは頂上に登りきってこそ、といった感もあるが、
私にとって頂上は副産物のようなもので、おこぼれだ。
目的は、ただもくもくと歩くこと。それに尽きる。

20代の頃は、頂上に上りきることが目的だった。
「角度がたった0.5度しかないような斜面ですら、頂上につながっているンだ!そこを辛抱して登ってさえいれば、いつか必ず頂上につくンだ!」と、山登りだけでなくいろいろな場面で、こんな言葉を自分の内から振り絞っては、何度も奮起し鼓舞できていた。
けれどもこのごろは、なんだか悟ったような気になって、「上ばっかり見てると疲れちゃうよー」の境地である。
今の理想は、「一生懸命歩いていたら、勝手に着いた」である。

山を歩くのが好きな理由。
自分を多少乱暴に自然に放りこむ感じもいい。
意識はからだに向けるけれど、同時にたくさんの感度を外へとばさなければいけない。
これがほどよく難しくて楽しい。
町や家にいるときは、情報はすべて文字から得なければならないけれど、
山へ飛びこめば、そこで必要なのは野性的な、ただ自分を守るための知恵の収集だけであったりする。
あの晒されている感じが生半可ながら好きなんだ。

そんな私のそばで、いちほはほどよく理性的で、そして大いに奔放である。
山のいちほは、とても頼りになる。
町のいちほは、びびり吠えの常習犯だがここでの彼女は別人だ。
特に何か特別なトレーニングをしたわけではないけれど、
元々の猟犬種としての素質なのだろうが、とても聞き分けがいい。
口笛、「こー(来い)」、「ストップ」、「まえ」、「アッ、アッ(注意喚起音)」
これらを絶妙に聞き分けて、付かず離れず上手に歩く。いい相棒だ。
時には、「2本足だから待ってあげなくちゃ」というような気の遣われ方をされているようにさえ感じる。

山歩きは、登りもいいが、下りもいい。
のぼりに比べると、スピード感が出るのが好きだ。
どこに足(や手)をおこうか瞬間的に判断していく面白さがある。

とはいえだ。
楽しみにばかり気をとられた私の最大の反省は、軽装備が過ぎたこと。

春先になると、ほとんど普段着で山菜取りをしている地元のご高齢の方などに出くわして、そのたびにその身の安全を心配したりするのだが、
今日の私はまさにそれであった。慣れ、というか甘さである。
蛇に出会わなかったのは、ただの幸運だ。
熊に出会わなかったことも、ただの幸運だ。
改めて胆に銘じる。銘じ過ぎることはない。

下りの終盤、珍しいことに、呼んでもすぐにいちほが戻って来なかったことも私のゆるんだ気持ちを十分に引き締めさせた。
名前を呼ぶと、高い声で鳴く。助けてほしいときの鳴き方だ。
低木に広がる枝の隙間を這うようにして突き進めば、岩場に嵌って動けなくなっていた。
結局、自力で脱出に成功した彼女は、助けに向かった私を差し置き、
一足早くコースに戻っていたからよかったけれど、
スマホのGPSや、斜面の地形の把握(崖は無いと判断した)など
瞬時に頭をめぐらせるほどにはひやひやした。

今は、改めて反省している私のかたわらで満足げにいびきをかいて寝ている。
ふっと和んでまた耳の付け根に鼻を寄せれば香ばしい匂いで胸がいっぱいになる。
けれどももしかすると、ここには森でまとった香りのほかに、
あのとき岩に嵌って動けなくなったときの焦りや冷や汗の匂いも混じっているのかもしれない。

私も同じく、木や森の湿気った匂いをまとわせながら、
まだまだ未熟な人間の匂いをさせているのだろう。

自然への憧れだけが先行して野生をこなしたふりをして、
やっぱりシャンプーの匂いも香らせるぐらいが
今の私たちにはお似合いなのかもしれない

自然の懐に抱かれる生活は、近く、遠く。

何だか始末が悪い話になってしまったけれど仕方ない。
ウソをつかぬとはこういうことだ

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