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集まれよぎったこと

 よぎったことをよぎったままに放っておくと、それは頭の中をずっと彷徨って、道に迷って、姿を消してしまう。よぎるものの早さは追いつかれないもので、よそ見する途端風の中の風船のように吹っ飛ばされてしまうのだ。そんなよぎったことを扱う方法は、風船を逃さないため糸に結びつけて握りしめることと同じだ。

 Doのディスコードには「よぎったこと」を書くチャンネルがある。私は3ヶ月間のみんなのよぎったことをまとめながら、ふっと思った。よぎったことにはその人らしさがあると。もしかしたら人間はよぎったことで成り立つ生き物なのではないかと。それぞれの個性豊かなよぎったことが集まって一人の人間になり、そのよぎったことの集合体である人間か集まって一つの共同体になるのではないかと。人間はよくもそんなそれぞれのよぎったことを持った他人と共生しているんだと。もしかしたら共生というのはそういうものではないかと。そんな思いが、ふっとよぎったのだ。

 100人、いや、5人の人間だけでも、世界はかなり複雑になる。それぞれの頭でよぎってることがあまりにも違うからだ。ある人は誰も想像できない可笑しいことばかり考えていて、ある人はただ些細なことを願っている。誰からの愛や関心を求める人もいれば、一人で自由に生きたがる人もいる。これらのよぎったことの中には、理解できることなんて一つもない。まさに、「何でこんなことがしたいんだろう」の連続だったのだ。それはつまり、「こういうのがよぎった人もいるんだ」を指す。人のよぎったことなんて、理解できることは何一つもない。それが丁度面白いものだと、そんな思いが、ふっとよぎったのだ。

 何の感情でそれを書いたのか、何の意図でそれを書いたのか、私には何一つも理解することができない。文章は感情も意図も見えないもので、情報だけが残ってしまうからだ。が、視覚化された考えがそこに残ってる。少なくとも私はそれを見て、「こういうのがよぎった人もいるんだ」と気付くことができるということだ。こうやって文字化されたよぎったことたちは、頭の中をずっと彷徨って、道に迷って、いつか姿を消してしまうとしても、そこにはちゃんと残ってる。風船が風に吹っ飛ばされないように糸に結びつけて握りしめることと同じく、早いスピードで横切るよぎったことを逃さないように文章という糸に結びつけて握りしめる。文字という形で再誕生したよぎったことのお出かけは、色んな人と出会い、色んな意味で解釈され、世の中に馴染んでいく。文字の力は、共有の力はそんなに素晴らしいものだ。誰も理解できないそれぞれのよぎったことを共有し、「こういうのがよぎった人もいるんだ」と気付き、自分の世界を広げることが共生ではないかと、そんな思いがふっとよぎった、そんな日だった。

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