秋に袖を掴まれた
さて、朝だ!
今日も一日が始まるぞ!
まず、金が無い!一年の目標考えなきゃ!Doのメンバーに昨日の会議の議事録共有しなきゃ!友達のラインに返信しなきゃ!歯医者に行かなきゃ!でも、そのためにはお金を稼がなきゃ!今日は最近億劫になって行ってない大学にも久しぶりに顔を出したい…。その準備もしなきゃ!
思考がきれぎれに頭の中に浮かんできて、それが浮かんでは消え、浮かんでは消えの連続。でも、まあ一つずつ考えていくしかなくない?とりあえず、書けることはどんどん書き出して、頭の中を空っぽにしてしまいたい、と思い、筆を取ってみた。
森鴎外の『妄想』、『山椒大夫』、川端康成の『禽獣』、『伊豆の踊り子』、夏目漱石の『行人』と、この一週間色々と読んできてたから、その書評を書いてブログに投稿したい。
そういえば、今年の目標は「冷静に丁寧に自己と他者を見つめる」ということだった。そのためにどんなことをすればいいのだろう?
瞑想。
自己と他者のそのままの形、状態を観察する手段として、瞑想はありだよな…。うん、ありだ!寝る前と、朝に30分ずつ瞑想するとか…。良さそう!結局夜は頭の中が騒がしくなって、それが原因で眠れなくなっちゃうもんね。
どのタイミングがいいかな?今、だいたい母さんが19時半くらいに帰ってきて、そこからご飯食べると、22時半くらいになる。それから入浴して、いつもなら読書するんだけど、眠る前に頭を興奮状態にすると寝付けないから、入浴後に瞑想をして、すぐ眠ることにしよう。だから、作業とか読書とかは、母さんが帰宅する19時半までに全て済ましておく、云々。
ここまで、書いてふっと思った。せっかく今日は久しぶりに早起きできたんだし、目の前の雑事から離れたことでも書いてみるか。
人生の妙は、自己実現欲求を満たすことだけにある訳じゃないだろう!などと、考えた。例えば、自分が住んでいる街のことだったり、自分の気持ちだったり、母親の気持ちだったり、人生だったり…。好きだった人のことだったり。誰かに、何かに思いを馳せること。そんなことって実はなかなか無いよな。そういうことができるのは、余裕がある人だけだろう。
”余裕がある人”を思い浮かべ、ある友人のことが頭に浮かんだ。
先日、彼とお酒を酌み交わし、恋について語り合った。
別れ際の女性の長文ラインについて、彼は「今年もこの季節がやってきたな、くらいに思う。」と言った。
「秋って夕焼けすごく綺麗じゃん。それを見た時に、ああ今年ももうこんな季節か、と思うのと一緒で、相手から長文ラインが来たら、ああもう俺たちも長文の季節かって思う」と物悲しい、それこそ秋の夕焼けを眺めているような表情で彼は言った。
その時、ふと、「女心と秋の空」という言葉が頭をよぎった。人の心の移ろいと、季節は重ねて考えられやすいのかもしれん。太宰さんもなんかで、書いてたな。確か、『ア、秋』だったか…。
どんな内容だったっけ?もうほとんど忘れちゃったけど、たしか詩人が手帳に秋についての雑感を書き留めているみたいな話じゃなかったっけ?
気になったので、再び太宰治の『ア、秋』を読んでみた。
詩人が詩作のための材料を書き留めている手帳の中から、秋について書かれた文章を読み返して、それについての雑感を語るという内容だった。
いくつか、気に留まった箇所を引用してみる。
「季節の思想」かあ。
今は冬だ。だけど、僕は最近やたらと秋のことを考えることが多い。今、この文章を書いている合間にも、いくらを漬け込む動画を見て、秋の食材に食指が動いている。太宰さんは、秋は夏と同時にやって来る、と仰っている。確かに、そうだ、と僕も思う。秋は夏と同時にやって来るだろう。しかし、僕はそれに少し付け加えたい。秋は夏と同時にやって来て、冬と一緒に去る。
去年の暮れから僕たちDoのメンバーは、サンタさんの格好をして、街頭で物乞いをしていた。年が開けの元旦にも、浅草寺をはじめとするいくつかの場所でサンタ帽被って道にひざまずいて、「メリークリスマス!」って叫んでた。元旦にも、去年の暮れに祝ったクリスマスを忘れたくない。これも「季節の思想」かもしれない。
そういえば、和風月名で、12月ってなんて言うんだっけ?
師走。走り回る月。
秋は、年末にくるくると立ち回っている人たちに置いて行かれた頓馬の袖をぐいと掴んで振り向かせる、勝ち気な娘さんみたいな季節かもしれない。
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