批評することと、創造すること

建築の世界では、創る人が批評もする。
コンペなどを見ていると当たり前の光景である。

こう考えると批評することと創造することは本質的に同じであるように感じる。

建築設計をしたことがあり、もしくはその話を聞いたことがあればその現場は常に改良を重ねていく場であることは身に染みて知っている。
アイデアももちろん大事だし、その表現技術ももちろん大事である。
しかし本質的に建築の価値を高めるのはそのブラッシュアップの数と精度である。

余談だが、人というのは努力が好きだ。
それ自体はとても価値のあることであるが、どうもそのやり方に頭を使わないという節がある。
そもそも努力には量と質という二つの要素があるはずで、その両方が十分になされたときそれは実を結ぶ。
至極当たり前の話なのだが、実際これを実行できている人は多くない。
これを実行できた人が成功を収めるのだろう。

話を戻すと、ブラッシュアップというのは努力そのものだ。
実力のある建築家たちはこの作業の質、量の両方のレベルが高い。
その結果評価される設計ができている。

そしてここに批評の力が活きてくる。
自分の創ったものをどのように評価し、どのように向上させていくか。
どういった方向性で、どれをどの程度変化させるか。
まさに批評の力が試されるときである。
批評というのは闇雲にして身につくものではない。
それを学ぶためにわざわざ高いお金を払って大学や専門学校などに通う。

しかしそこで受ける教育の質は果たして高いのだろうか?

そもそも批評力のような多面的な見方をしなければならない技術は当然多様な視点が必要となる。
そしてそこには様々な区分けがあるだろう。
科学的・芸術的、定性的・定量的、モノ中心・ヒト中心、、、、
そのすべてがなければ適切な評価が下せない。
そしてそのすべてがその教育の中にあるのだろうか?

私にはそう見えない。
どうもある側面はとてもレベルが高く、それゆえその他の視点が排除される結果になっている(少なくとも教育カリキュラム上は)ように感じる。
批評力とは創造力そのものだからこそ、もっと多様な批評をできるようにならなければならない。
そして我々はそれを求め続けなければならない。


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