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『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』観たよ

『サイドウェイ』のアレキサンダー・ペイン監督が同じく『サイドウェイズ』のポール・ジアマッティを主演に据えて撮った映画で、舞台は70年代。とある全寮制の名門校で、冬期休暇に「居残り」することになったひとびとの交流を描く。
クリスマスというアメリカにおける強烈な「家族圧」が放たれる時期に誰もいない学校に取り残される人々の話なので主要人物である古代史の教師ハナム、料理長のメアリー、そして成績優秀な学生アンガスの三人はそれぞれが個人的な悩みや喪失感を抱えている。

鑑賞を終えて最初に思ったのは、なんだかすごく、こころにゆとりのある映画だな、ということ。日本の映画もアメリカの映画も、今の時代の現実のなかで映画を作るならばやっぱり切実なものをはらまざるを得ず、それはもちろん必要な事なのだけど、どうしても息苦しくなってしまう。たとえば『ザ・ボーイズ』のシーズン4はめためたにユーモラスにお話を語っているけれど、その後ろにある強烈な、現在進行形の痛みと苦しみを私は感じてしまう。
この映画はずたずたに傷ついた人を描いてはいるのだけど、年末年始の二週間という限られた時間の、映画の中で描かれる出来事は、とても穏やかだ。おはなしを盛り上げるために、登場人物同士を誤解させ合ったりとんでもない失敗を起こしたりと、脚本というのは人為的な盛り上げポイントを入れて観客にストレスを与えるのが普通(ストレスが解消された時の快楽が欲しいので)だけど、この映画は少なくとも主要な三人のあいだではそういう不和は生じない。街中で女性に声を掛けられても、ふつうの映画ならそこで女性についていって一波乱、みたいな展開を入れそうなところだけど、ハナムはちゃんと断る。劇中ではトラブルらしいトラブルは起きずに、ただただ、彼らがその時どう振る舞ったかと、お互いのことをわかっていく過程が描かれる。

どうしてだか、ひとりでいると、人生のうまくいかなかった部分が恥ずかしくてたまらなくなる。ハナムはずっと自分のことをごまかしている。嘘を重ね、嘘は障壁になり、ますますひとを遠ざける。過去の自分を知る人が近くにいなければ、嘘は嘘だとみなされない。嘘というのは必ずしも事実とは違う情報の羅列ではなく、ごまかした自分だけを開示して他人を恐れる態度のことだ。私もこのハナムの態度には身に覚えがある。自分を恥じてごまかすことに労力を割いたって何の意味もないのはわかっているけれど、少なくとも恥ずかしさはごまかせる。消えてしまいたいような気持ちはごまかせる。しかし、ハナムは息子を失ったメアリーの振る舞いを見て、子どもには不相応な孤独に直面させられたアンガスの心に触れて、消えてしまいたい気持ちも自分を恥ずかしく思う気持ちも、心の中のあるべき場所にしまうことができるようになる。
アンガスとメアリーと過ごした年末年始を経たハナムは、とある決断をする。それは誰かのために自分の身を捧げる決断だ。あるいは、クリスマスの精神そのもの。すべてを失ったように見えたハナムは、実は何も失っていない。止まっていた時間は動き出し、彼は厚みのある白紙のノートにはじめてとなる自分の著作を書き始めるだろう。古代の歴史、過去について書かれたその本は、きっとハナムの今を著すあかしになっているはずだ。


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