読書感想文(267)角田泰隆『道元入門』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

最近は恩田陸さんの小説を続けて読んでいましたが、今回は一転、仏教の本です。
この本を読もうと思ったきっかけは、まず数学者・岡潔が著書で称賛していたこと、そして今年の初詣で道元が開いた永平寺にお参りしたことです。


岡潔の著書でも紹介されていた和歌の石碑

感想

思っていたよりも読みやすかったです。
仏教の本は難解な印象がありましたが、この本はそれなりに理解できました。

全部で三章あり、第一章が道元の生涯、第二章が道元の思想、第三章が道元と現代となっています。
どれも面白かったですが、特に面白かったのは第一章です。
印象に残っているのは道元の入宋の場面です。入宋直前に師匠が病に倒れてしまい、師匠からも他の弟子からもしばらく留まるように言われますが、道元は「自分がいてもできることはない、それよりは一刻も早く宋に行って真の仏教を学び、より多くの人を救うべきだ」という思いを胸に、宋へ旅立ちます。
この場面は、逆に日本へ帰る時に如浄という師匠がまた病気になってしまう所で伏線(?)が回収されます。今回も道元は師匠を残して日本へ向かいますが、この時は師匠の方も道元に早く日本に戻るこもを勧めます。ここに、「他人を先に、自分を後に」という真の仏道者らしい思想が窺われます。
また、共に入宋した師であり友であった明全は、宋で病気になり、志半ばで亡くなります。道元は亡き師の分まで宋で学び、そして日本に曹洞宗を伝えるのです。
このような生涯を読んでいると、とてもドラマチックで、時代小説にもなりそうだなと思いました。調べてみると、やはり既に書かれていました。結構長そうですが、いつか読みたいと思いました。

臨済宗と曹洞宗との違いを明確にすることは難しいが、この「坐禅観」あるいは「修証観」「作仏観」において、相違の一端をうかがうことができると言えよう。
臨済禅は、「作仏」あるいは「悟り」について、それは生活全般の中のあらゆる行の中に見出されるべきものであるとし、坐禅の一行に執着しない。
曹洞禅は、必ずしも坐禅の一行に執着するわけではないが、坐禅を第一の修行とし、そもそも「作仏」や「悟り」そのものに執着してはならないと教えるのである。

P115

とてもわかりやすい対比で、なるほどなぁと思いました。そして、現代の感覚では臨済宗の方が理解しやすいように思いました。
しかし、法界の事を真に表しているのは、曹洞宗のような気もします。
私の個人的な感覚では、悟りは生活全般の行にあるものだが、悟りのために行があるのではない、というのがしっくりきます。
そういえば、今回「修証」という言葉を初めて知りました。「修行即ち証(さと)り」という意味で、修行をしている時には既に悟っているのだ、ということだそうです。言葉にすると変な感じですが、自分の中では結構腑に落ちました。
それを坐禅に集中するのが曹洞宗なのかなと思いますが、そこがあまりしっくり来ないのは、仏の真似をする、という感覚が自分の今の価値観と相容れないからかなと思います。

また、「無所得」という言葉も印象的でした。これは勿論現在使われている「金銭的収入が無い」という意味ではなく、「何かの為に行うのではない」という意味です。これには深く共感するところで、現在は目的(ゴール)ありきの思考が主流になっているように思います。そして皮肉にも、「有所得」即ちお金がその目的になってしまっていることも多いのではないかと思います。こういう話をすると、大抵の人は「お金のためにお金を得るのではなく、お金を使ってしたいことがあるからお金を得たいのだ」と言うと思います。しかし、ではなぜそれをしたいのか、という事を繰り返していくと、どこかで「私は何の為に生きているのか」「人類は何の為に生きているのか」という問いにぶつかります。
使い古されて形骸化しがちなこの哲学的問いを真剣に考えた時、初めて仏教の意義が少しわかり始めるのではないかと思います。

と、いつの間にかまた話が脱線してしまいました。
偉そうな事を書きながら、私も全然理解が浅いのですが、今の自分の考えをこうして残しておくのはいいことだと思っています。

おわりに

今回、意外とすんなり読めたので良かったです。
今年は仏教関係の本を三冊読むことを目標にしていますが、これで二冊目になります。
仏教も気になりますが、道教など他の宗教も気になっているので、モチベーションが高いうちに読めたらいいなと思います。

ということで、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。


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