読書感想文(201)東野圭吾『人魚の眠る家』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は映画化もされた東野圭吾の作品です。
以前読書会で紹介されて買っていたのですが、積ん読になっていました。
最近、別の人にまたオススメされたので読んでみました。

感想

とても良かったです。
最後の方は特に、嗚咽のようなものが込み上げてきて、涙が出てきました。

東野圭吾の作品は今のところ全部面白いのですが、その理由は登場人物のわかりやすさなのかなぁと思いました。
今回、最も印象に残ったのはお母さんですが、このお母さんは娘が事故に遭う前から、少し良くない印象を持ちました。
娘が脳死のような状態だと言われる心境は想像を絶しますし、そのことは両親に多大な影響を与えたと思います。一方で、その出来事だけがその人物を作っているわけでもありません。
この作品の本題とはズレますが、私はもし事故が無くても、このお母さんとは何だか仲良くなれなかったような気がします。
ただ、それももしかすると夫の不倫が原因なのかもしれません。
また、最後に自身で「傍目には狂った母親だと見えたかもしれないけれど、子供のために狂えるのは母親だけ」と言っていたことも印象的でした。この母親はとても頭が良いので、そのくらいの自覚はあったのだとわかりました。
もし自分がこの母親の立場だったら、と想像してみようと思いましたが、やはり当事者にならなければわからないような気もします。そして、当事者にならずに済むならそれが一番だ、とも思います。

「クローバーを見つけたの。四つ葉のクローバー。あの子が自分で見つけたのよ。ママ、これだけ葉っぱが四枚付いてるって。それで私、わあすごいね、それを見つけたら幸せになれるのよ、持って帰れば、といったの。そつしたらあの子、何ていったと思う?」訊きながら和昌のほうに顔を巡らせてきた。
わからない、と彼は首を振った。
「瑞穂は幸せだから大丈夫。この葉っぱは誰かのために残しとくといって、そのままにしておいたの。会ったこともない誰かが幸せになれるようにって」

P72

物語の序盤でここを読んだ時、なんて優しい子なんだろうと思いました。
こういった心をたくさんの人が持つことができれば、世の中は良い方に向かって行くのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
一方で、「自分は幸せだから」という点が少し引っかかりました。幸せというのは一定の基準を設けるのが難しいものだと思います。何を以て自分は幸せだと思えるのか、わかりません。不幸についても同じです。
だから、私は他人の幸せを願うのに、自分が幸せかどうかは関係ないと思います。勿論、世の中綺麗事で済む問題ばかりではなく、そもそもそれぞれの幸せが矛盾してしまうこともあると思います。
しかし、基本的には自分の幸せと無関係に他人の幸せを願うのが良いのではないかと思います。この基本姿勢が無ければ、他人の幸せを願うという選択肢を見つけることすらできずに、自分を優先してしまいがちになると思うからです。
先日、岡潔『一葉舟』で書かれていた「他人を先にして自分を後にする」という言葉が思い出されます。
多くの人がまず自分のことを考えてしまいがちだと思いますが、自分より先に他人のことを考える思考回路を持つことが大切なのかなと思います。

話が戻りますが、登場人物について、榎田先生は、正直好きになれませんでした。弁えている点は良いなと思ったのですが、そもそも患者さんに対して下心を持つ時点で気持ち悪さを感じます。ただし、この点はお母さんも星野さんも同じです。榎田先生や星野さんに仄かに恋心を持っていることを自覚しています。
そして、気持ち悪さを感じつつも、リアリティも感じます。人間は倫理的に良くない思考を理性で抑えてしまいがちです。社会生活を営む上ではとても大切な事ですが、一方で自分の本心を否定してしまっていることにもなります。
この辺りを実に素直に書くなぁと思いました。繰り返しになりますが、人は良心が咎める感情を無かったことにしてしまいがちですが、それを受け止めて、しかし冷静に生きている登場人物は、人間らしくもあり、しかし人間にしては出来過ぎているようにも思われました。

論理的に正しい行為にもかかわらず、なぜそんなふうに感じてしまうのでしょうか。それは、人間は論理だけでは生きていけない動物だからです。

P317

これもとても印象に残りました。
私は子供の頃から似たようなことを考えてきましたが、年を重ねるにつれてますます忘れてはいけないと思います。
そもそも正しい、とは何なのか。そういったことを人類皆で考えるためにも、哲学をもっと重視するべきなのだろうと思うのですが、最近は技術(手段・道具)や小さな目標にばかり囚われて、そもそもの大前提(例えば「人は何の為に生きるのか」といったもの)が忘れられているように感じます。こういったことを考えられないのが個人主義の良くないところだろうと思います。

最後に、一つ気になったことを書いて終わります。
それは、ラストで屋敷が無くなっていたことです。
これは離婚を意味しているのか、二人暮らしには広すぎるから引っ越したのか。
しかし立派な屋敷を更地にしてしまったのはなぜなのか。単に次の建物が建つのか、けれども工事が始まった様子もないのでやはり取り壊したのか。なぜ取り壊したのか、過去に囚われずに生きていくためなのだろうか。
引っ越したのは、弟を転校させるためというのも、十分考えられるように思います。思えば、母親が姉に付きっきりで看病する一方、きっと弟には手の回らないこともあっただろうと思います。
当然想像することしかできないのですが、この家族がどうか幸せに生きていってくれることを願わずにはいられません。

おわりに

この本を読んで、久しぶりに「死」についてしっかり考えたように思います。
そして、シェリー・ケーガン著『「死」とは何か』という本を思い出しました。
一年前にオススメされて気になりつつ、かなり分厚いこともあってなかなか手を出せずにいます。
久々に思い出したので、また機会があればこちらも読みたいなと思いました。

ということで、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。


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